[go: up one dir, main page]

コンテンツにスキップ

ベオグラード

この記事は良質な記事に選ばれています
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベオグラード
Град Београд
Grad Beograd
ベオグラードの風景
ベオグラードの風景
ベオグラードの市旗 ベオグラードの市章
位置
の位置図
位置
ベオグラードの位置(セルビア内)
ベオグラード
ベオグラード
ベオグラード (セルビア)
ベオグラードの位置(バルカン半島内)
ベオグラード
ベオグラード
ベオグラード (バルカン半島)
ベオグラードの位置(地中海内)
ベオグラード
ベオグラード
ベオグラード (地中海)
ベオグラードの位置(ヨーロッパ内)
ベオグラード
ベオグラード
ベオグラード (ヨーロッパ)
地図
座標 : 北緯44度49分14秒 東経20度27分44秒 / 北緯44.82056度 東経20.46222度 / 44.82056; 20.46222
歴史
入植 紀元前269年
行政
セルビアの旗 セルビア
  ベオグラード
市長 シニシャ・マリ
SNS
地理
面積  
   3,222.68 km2 (1,244.3 mi2)
  市街地 359.96 km2 (139 mi2)
標高 117[1] m (384 ft)
人口
人口 (2006年[2]現在)
   1756534人
    人口密度   530.61人/km2
  市街地 1281801人
    市街地人口密度   3,560.95人/km2
その他
等時帯 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号 11000
市外局番 (+381) 11
ナンバープレート BG
ISO 3166-2 RS-00
公式ウェブサイト : www.beograd.rs ウィキデータを編集

ベオグラードセルビア語: Београд / Beograd発音ハンガリー語:Belgrád ベルグラード / Nándorfehérvár ナーンドルフェヘールヴァール)は、セルビア共和国首都であり、最大都市である。市名はセルビア語で「白い町」の意味である。ベオグラードはバルカン半島パンノニア平原の中にあり、ドナウ川サヴァ川の合流地点に広がっている。2007年の公式の推計による人口は175万6534人であった[3]。かつてはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首都であり、旧ユーゴスラビア地域で最大の都市であった。また、ドナウ川沿いでは2番目に大きく[4]、バルカン半島ではイスタンブールアテネブカレストに次いで4番目に大きい。

ヨーロッパ最古の都市の一つであり、考古学的な調査では同地における人の居住は紀元前6千年紀にまで遡る[5][6]。ベオグラード広域都市圏の域内はヴィンチャ文化と呼ばれる、ヨーロッパ最大の前史文明の発祥の地である[7][8]。町はギリシャ人に発見され[9]ケルト人によって築かれて命名された[10]ローマ帝国によって都市権を与えられた[11]600年代白セルビア人による定住が始まる。ベオグラードは戦略的拠点として、町は古代より現代までの間に140回にわたって戦いの場となった[12]中世には、東ローマ帝国フランク人第一次ブルガリア帝国ハンガリー王国、そしてセルビア人の諸領主の支配地となった。1521年、ベオグラードはオスマン帝国に征服され、オスマン領ヨーロッパの重要拠点として、スメデレヴォ県英語版(スメデレヴォ・サンジャク)の中心都市となった[13][14]。ベオグラードはオスマン帝国とハプスブルク君主国に交互に支配され、セルビアの首都としての地位を回復するのは1841年のことであった。しかし、ベオグラード北部はその後も1918年オーストリア=ハンガリー帝国崩壊までオーストリアの統治下に置かれ続けた。その後統一されたベオグラードは、2006年にセルビアが独立するまでの間、ユーゴスラビア王国ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ユーゴスラビア連邦共和国セルビア・モンテネグロの首都であった。

ベオグラードはセルビアの中で、自治権のある独自の市政府を持つ、独立した地位を持っている[15]。ベオグラードは17のに分かれ、それぞれの区は独自の区議会を持つ[16]。ベオグラードはセルビアの面積の3.6%を占め、セルビアの人口の24%が居住する[17]。ベオグラードはセルビアの経済活動の中心であり、セルビアの文化、教育、学術の中心である。

地理

[編集]
ベオグラードの衛星写真

ベオグラードは標高116.75m、ドナウ川サヴァ川の合流地点、東経20°27'44"、北緯44°49'14" にある。合流点にはベリコ・ラトノ島という中州がある[18]。ベオグラードの歴史的な中核は、両河川の右岸に位置しており、今日のカレメグダン英語版地区に当たる。19世紀以降、町は南および東に拡大し、第二次世界大戦以降にサヴァ川の左岸にノヴィ・ベオグラードが建設され、ゼムンはベオグラードに統合された。ドナウ川の対岸にある小規模な、主として住宅地であったクルニャチャ英語版オヴチャ英語版等もまたベオグラードに統合された。市域の面積は360km2、都市圏の面積は3223km2に達する。歴史を通じ、ベオグラードは西洋東洋を繋ぐ主要な交易路の上にあった[19]

サヴァ川右岸にあるベオグラード中心部は丘陵地帯であり、またベオグラード域内で標高が最も高い地点はトルラク丘英語版で標高303mである。街の南にはアヴァラ山英語版(標高511m)、コスマイ山英語版(標高628m)がある[20]。サヴァ川およびドナウ川に沿った一帯では地形は平坦であり、沖積平野ローム台地を形成している[21]

気候

[編集]

ベオグラードは温暖な大陸性気候である。年間平均気温は摂氏11.7度であり、最も暑い7月の平均気温は23度に達する。平均的に、年間31日は気温が30度を越え、95日は25度を越える。ベオグラードの年間降水量は700mmである。平均的な年間の日照時間は2096時間である。最も晴れる月は7月と8月であり、10月は平均的である。12月と1月は日照が最も少なく、平均すると一日あたりの日照時間は2-2,3時間程度である[22]。ベオグラードにおける公式な記録史上最も高い気温は43.1度であり[23]、最も低い気温は1893年1月10日の-26.2度である[24]

ベオグラード (1981–2010)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 20.7
(69.3)
23.9
(75)
28.8
(83.8)
32.2
(90)
34.9
(94.8)
37.4
(99.3)
43.6
(110.5)
40.0
(104)
37.5
(99.5)
30.7
(87.3)
28.4
(83.1)
22.6
(72.7)
43.6
(110.5)
平均最高気温 °C°F 4.6
(40.3)
7.0
(44.6)
12.4
(54.3)
18.0
(64.4)
23.5
(74.3)
26.2
(79.2)
28.6
(83.5)
28.7
(83.7)
23.9
(75)
18.4
(65.1)
11.2
(52.2)
5.8
(42.4)
17.4
(63.3)
日平均気温 °C°F 1.4
(34.5)
3.1
(37.6)
7.6
(45.7)
12.9
(55.2)
18.1
(64.6)
21.0
(69.8)
23.0
(73.4)
22.7
(72.9)
18.0
(64.4)
12.9
(55.2)
7.1
(44.8)
2.7
(36.9)
12.5
(54.5)
平均最低気温 °C°F −1.1
(30)
−0.1
(31.8)
3.7
(38.7)
8.3
(46.9)
13.0
(55.4)
15.8
(60.4)
17.5
(63.5)
17.6
(63.7)
13.5
(56.3)
9.0
(48.2)
4.2
(39.6)
0.2
(32.4)
8.5
(47.3)
最低気温記録 °C°F −26.2
(−15.2)
−15.4
(4.3)
−12.4
(9.7)
−3.4
(25.9)
2.5
(36.5)
6.5
(43.7)
9.4
(48.9)
6.7
(44.1)
4.7
(40.5)
−4.5
(23.9)
−7.8
(18)
−13.4
(7.9)
−18.2
(−0.8)
降水量 mm (inch) 46.9
(1.846)
40.0
(1.575)
49.3
(1.941)
56.1
(2.209)
58.0
(2.283)
101.2
(3.984)
63.0
(2.48)
58.3
(2.295)
55.3
(2.177)
50.2
(1.976)
55.1
(2.169)
57.4
(2.26)
690.9
(27.201)
平均降水日数 (≥0.1 mm) 13 12 11 13 13 13 10 9 10 10 12 14 139
湿度 78 71 63 61 61 63 61 61 67 71 75 79 68
平均月間日照時間 72.2 101.7 153.2 188.1 242.2 260.9 290.8 274.0 204.3 163.1 97.0 64.5 2,111.9
出典:Republic Hydrometeorological Service of Serbia[25]

歴史

[編集]

古代

[編集]
ベオグラード(シンギドゥヌム)出身のローマ皇帝ヨウィアヌス

新石器時代スタルチェヴォ文化英語版ヴィンチャ文化英語版はベオグラード付近で発達し、7000年ほど前にバルカン半島一帯および中央ヨーロッパアナトリア半島の一部を支配した[26][27]。有史以前に見られる古ヨーロッパ文字(ヴィンチャ文字)は最古のアルファベットであるとする見方もある[28]。数世紀の後、古代ギリシャアルゴナウタイは、カウリアク (Cauliac) と呼ばれた古代のベオグラードに黒海からドナウ川を遡って到達し、サヴァ川を発見している[9]。紀元前4世紀にはケルト人部族のスコルディスキが居住し、町はシンギドゥン (Singidūn) と呼ばれた。町は紀元後1世紀ローマ化され、シンギドゥヌム英語版と呼ばれた。2世紀中期、町はローマ帝国のムニキピウムとされ、2世紀の末にはローマ帝国の都市制度の中で最も上位にある植民市(コロニア)に昇格した[11]

初のキリスト教徒のローマ皇帝は、今日のセルビアのニシュ280年に生まれたコンスタンティヌス1世であった[29][30]。ベオグラード出身でローマ皇帝となったヨウィアヌス(332年生まれ)は、キリスト教を再導入した[31]。ヨウィアヌスはローマ帝国国教としてキリスト教を再導入し、前任者ユリアヌスによる異教の復興に終止符を打った。395年、この地域は東ローマ帝国へと引き継がれた[27][32]

シンギドゥヌムからサヴァ川を挟んで対岸にはケルト人の町タウルヌム(Taurunum、今日のゼムン)があり、ローマ時代、東ローマ時代を通じてシンギドゥヌムとタウルヌムの両都市は命運を共にした[33]。両都市は橋で結ばれていた。

中世

[編集]
rightベオグラード要塞
ナーンドルフェヘールヴァール(ベオグラード)包囲(1456年)

シンギドゥヌムは630年頃にスラヴ人が移住するまでの間、フン族サルマタイゲピド族東ゴート族アヴァールなどによる侵入を度々受け、また破壊された。500年代初期、アヴァールの侵入を受けるまでの間、ゲピド王国の中心地として機能した。9世紀初頭、アヴァールが最終的にフランク王国によって崩壊すると[34]、シンギドゥヌムは再び東ローマ帝国の支配下に復した一方、タウルヌムはマレヴィラ (Malevilla) と改称され、フランク王国の一部となった[35]。およそ878年頃、第一次ブルガリア帝国の支配下の時代、この街の最古のスラヴ語の呼称「ベリグラード」 (Beligrad) が記録されている。その後4世紀にわたり、街は東ローマ帝国、ハンガリー王国、第一次ブルガリア帝国の争奪の場となった[36]。ベオグラードは第1回十字軍第2回十字軍を受け入れたが[37]第3次十字軍がベオグラードを通るとき、フリードリヒ1世と彼の率いる19万人の兵士らは、ベオグラードが廃墟となっているのを目撃した[38]

ベオグラードは1284年スレム王国の首都となり、ステファン・ドラグティンはベオグラードを統治した初のセルビア人の王となった。ドラグティンは義父のハンガリー王イシュトヴァーン5世からスレム地域を与えられた[39]1371年マリツァ川の戦い1389年コソボの戦いを経て、セルビア帝国は崩壊し、オスマン帝国がその南部を支配下に置いた[40][41][42]。他方で、セルビアの北部ではベオグラードを首都としたセルビア専制公国英語版が続いた。ベオグラードは専制公ステファン・ラザレヴィチ英語版の下で繁栄した。ステファン・ラザレヴィチはセルビア公ラザル・フレベリャノヴィチの息子であった。ステファン・ラザレヴィチは要塞、塔を備えた城を建造し、そのうち西の壁とデスポト・ステファン塔英語版は今日まで残されている。ステファン・ラザレヴィチはまた、街を取り囲む古代の要塞を再建し、専制公国はオスマン帝国の攻勢に対してほぼ70年持ちこたえた。この間、ベオグラードはオスマン帝国の支配から逃れてきたバルカン各地の人々の逃げ込み先となっており、その人口は4万-5万人ほどであったと考えられる[39]

1427年、ステファン・ラザレヴィチのあとを継いだジュラジ・ブランコヴィチ英語版は、ベオグラードをハンガリー王国に返還させられ、首都はスメデレヴォに移った。ジュラジの統治時代、オスマン帝国はセルビア専制公国の領地のほとんどを制圧したものの、1440年ベオグラード包囲戦[37]1456年の再度の包囲戦[43]はいずれも失敗している。ベオグラードは、10万人を超える兵士を擁するオスマン帝国の中央ヨーロッパ侵攻を食い止める防衛線の役目を果たしていた[44]フニャディ・ヤーノシュ率いるキリスト教徒の勢力はベオグラードの包囲戦を戦い、オスマン帝国スルタンメフメト2世が率いる軍勢から街を守りぬいた[45]。この戦いは「キリスト教の命運を決するもの」とされ、教皇カリストゥス3世は毎日正午に全教会の鐘を鳴らすよう命じ、防衛戦の勝利を祈った[46][37]

オスマン帝国とオーストリアによる統治

[編集]
16世紀のベオグラード

長くオスマン帝国の攻勢に抵抗を続けていたベオグラードは、1521年8月28日スレイマン1世の25万人の兵士によって制圧された。街はほぼ全てが破壊され、キリスト教徒(セルビア人、ハンガリー人ギリシャ人アルメニア人など)は全てイスタンブールへと強制移送され[37]、その地区はこれに因んで後にベオグラード要塞と呼ばれるようになった[47]。ベオグラードはサンジャク(県)の県都となり、トルコ人、アルメニア人、ギリシャ人、ラグーサの交易商人などが集まるようになった。ベオグラードはこの後150年に及ぶ平和を享受する。ベオグラードはコンスタンティノポリスに次いで、オスマン帝国領ヨーロッパで2番目に大きい都市となり、10万人以上が居住した[44]。オスマン帝国の統治は、ベオグラードにオスマン建築をもたらし、多くのモスクが建造され、街にはオリエンタルの影響が強まった[48]1594年バナト蜂起とよばれる大規模なセルビア人の反乱がトルコ人によって鎮圧された。さらに、アルバニア出身の大宰相スィナン・パシャSinan Pasha[49]は、ベオグラードのヴラチャル台地にて聖サヴァ不朽体を公開の場で焼き捨てるよう命じた。後にこの事件を記憶するために聖サワ大聖堂が建造された[50]。反乱に対する報復として、街の住民のほとんどがイスタンブールに強制移送された[51]

1717年、オーストリアのプリンツ・オイゲンによるベオグラード包囲戦墺土戦争の戦闘の1つとして発生した。

ベオグラードは3度にわたってハプスブルク帝国オーストリア大公国)に占領された(1688年 - 1690年、1717年 - 1739年、1789年 - 1791年)。1度目は大トルコ戦争バイエルン選帝侯マクシミリアン2世がベオグラードを包囲して奪い(ベオグラード包囲戦)、2度目はプリンツ・オイゲンの主導で墺土戦争の最中に包囲・陥落させ(ベオグラード包囲戦)、3度目は墺土戦争中にオーストリアに落とされた[52]。ベオグラードはその度にオスマン帝国によって再制圧された[48]が、ゼムン以北は引き続きオーストリア領となった。

この間、セルビア人の大規模な人口移動が発生し、退却するオーストリア人とともにセルビア人がハプスブルク領内に流入した。彼らの子孫はヴォイヴォディナスラヴォニアに居住している[53]

セルビアの首都

[編集]
ベオグラードの共和国広場に立つミハイロ・オブレノヴィチ3世の像(19世紀中頃)

第一次セルビア人蜂起の間、セルビア人の反乱者らは1807年1月8日からベオグラードを統治し、1813年にオスマン帝国に再制圧されるまで続いた[54]。1815年の第二次セルビア人蜂起の後、セルビアは半独立的な地位を獲得し、1830年にはオスマン帝国によって認められた[55]1841年ミハイロ・オブレノヴィッチMihailo Obrenović)は首都をクラグイェヴァツからベオグラードに移した[56][57]

セルビア公国の完全独立は1878年で、これによって国は1882年セルビア王国へと改組された。ベオグラードは再びバルカンの主要都市の一つへと返り咲き、急速な発展を遂げた[54][58]。セルビアで2番目に大きいニシュへの鉄道が開通したものの、1900年のベオグラードの人口は6万9100人程度しかなく、セルビアは国全体としては依然農業国であり続けた[59]1905年、ベオグラードの人口は8万人を超えた。1914年第一次世界大戦が勃発したとき、当時はオーストリア=ハンガリー帝国領であったゼムンを含まないベオグラードの人口は10万人を超えた[60]

バルカン半島および中央ヨーロッパで初の映画の映写はベオグラードで1896年6月にリュミエール兄弟の代理人としてAndre Carrによって行われた。Carrは翌年、初の映画をベオグラードで撮影したが、その映像は残されていない[61]

第一次世界大戦 - 戦間期: 街の統合

[編集]
"カレメグダン英語版は私の知る限りで最も素晴らしく、楽天主義の最良の場である。 "
レベッカ・ウェスト、1936年[62]
19世紀末のクネズ・ミハイロヴァ通り

1914年6月28日ガヴリロ・プリンツィプがオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント夫妻を暗殺したサライェヴォ事件によって第一次世界大戦が引き起こされた。その後のバルカン半島での戦いの多くはベオグラード周辺で起こった。

オーストリア=ハンガリー帝国海軍モニター艦1914年7月29日にベオグラードを包囲し、街は11月30日にオスカル・ポティオレク(Oskar Potiorek)率いるオーストリア軍の手に落ちた。12月15日、街はラドミル・プトニク率いるセルビア軍によって奪還された。10月6日から10月9日にかけて、街の大半を破壊した長期の戦いの後、10月9日にベオグラードはドイツ陸軍アウグスト・フォン・マッケンゼン率いるオーストリア=ハンガリー軍の手に落ちた。街は1918年11月5日元帥Louis Franchet d'Espéreyアレクサンダル1世率いるセルビア軍とフランス軍によって再奪還された。前線の街であったベオグラードでは大規模に人口が減少し、一時はスボティツァがセルビアで最大の人口の街となった[63]。しかし、終戦後の戦間期、ベオグラードは急速に人口を増やし、その人口は1920年代初頭にはスボティツァを上回った。終戦後、セルビアは他国の領土とともにセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国となり、ベオグラードはその首都となった。王国は1929年に公式にユーゴスラビアへと改称された。ユーゴスラビア王国は9の州(バノヴィナ)に分けられ、ベオグラードとゼムンパンチェヴォはどのバノヴィナにも属さない独立した行政区を構成した[64]

この時代、ベオグラードは急速な発展と現代化を遂げた。ベオグラードの人口は1931年には23万9000人に達し(オーストリア・ハンガリー帝国領であったゼムンを含む)、1940年には32万人となった。1921年から1948年までの年間の人口増加率は平均して4.08%であった[65]1927年、ベオグラードで初の空港が開港し、1929年、ラジオ局が放送を開始した。ドナウ川を渡るパンチェヴォ橋Pančevo Bridge)は1935年に開通した[66]

第二次世界大戦

[編集]
破壊された市街(1941年

1941年3月25日、ユーゴスラビア王国の摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチ日独伊三国軍事同盟に調印し、第二次世界大戦の混乱を避けるため枢軸国の一員となった。これは直後にベオグラードで大規模な抗議行動に発展し、空軍指揮官のドゥシャン・シモヴィッチDušan Simović)将軍率いるクーデターが引き起こされた。シモヴィッチは、国王ペータル2世が摂政なしで統治する年齢に達したと宣言した。その直後、1941年4月6日、ベオグラードはドイツ空軍によって空爆され、2万4000人が死亡した[67][68]。 4月10日にはドイツ国防軍がベオグラード市内に突入した[69]

ユーゴスラビア王国はナチス・ドイツと枢軸諸国による侵攻を受け、ゼムンの東に至るまでのベオグラード郊外はナチス傀儡政権であるクロアチア独立国の領土とされた。ベオグラードはナチスの傀儡ミラン・ネディッチによるセルビア救国政府の首都とされた。1941年8月、ドイツ軍に接収されたラジオ・ベオグラードは『リリー・マルレーン』を毎日、夜21時57分に放送するようになった。このラジオは枢軸国軍、連合国軍双方に聴取され、この歌を世界的にヒットさせた。

1941年の夏から秋にかけて、ナチスへのゲリラ攻撃に対する報復として、ドイツ軍はベオグラードの一般市民に対する虐殺を行った。特に、ベオグラードのユダヤ人共同体に属する市民は、ドイツ軍のセルビア軍事指導者フランツ・ベーメ将軍の命令により大量殺戮の対象となった。ベーメは、ドイツ人の死者1人に対してセルビア人市民100人、ドイツ人の負傷者1人に対してセルビア人市民50人を殺害するとする報復の規定を厳格に適用し、死亡したドイツ兵1人につき100人の市民を殺害した[70]

ベオグラードは1944年4月、連合国による空爆を受け、1600人が死亡した。以前のドイツ軍による空爆も、今回の連合国による空爆も、共に正教会復活祭の時期に行われた。ベオグラードの多くは1944年10月20日までドイツ軍の占領が続いたが、その後は共産主義者パルチザンと、独ソ戦末期にドイツ軍を撃破してバルカン半島へ進撃してきたソ連軍によって解放された。1945年11月29日、パルチザンのヨシップ・ブロズ・ティトー元帥はベオグラードにてユーゴスラビア連邦人民共和国の成立を宣言した。

社会主義ユーゴスラビア時代

[編集]
非同盟運動 ベオグラード(1961年

第二次世界大戦後、ベオグラードは社会主義の連邦国家として再出発したユーゴスラビア連邦の首都として急速に発展し、主要な産業拠点となった[58]1958年、ベオグラードで初のテレビ放送が始まった。1961年ヨシップ・ブロズ・ティトーを議長とし非同盟諸国首脳会議がベオグラードで開かれた。1968年、ティトー体制に反対する大規模な学生の抗議行動が起こり、路上で学生らと警官が衝突した。抗議は、ティトーの有名な言葉「学生たちは正しい!」を残して終わった。1972年3月、ベオグラードはヨーロッパを中心とした天然痘の流行(the last major outbreak of smallpox in Europe)の中心となり、検疫ワクチンの集団投与を通じ、5月末までに沈静化された[71]

社会主義体制崩壊以降

[編集]

1991年3月19日ヴク・ドラシュコヴィッチVuk Drašković)に率いられた、大規模なスロボダン・ミロシェヴィッチ政権に対する抗議行動(en:March 9, 1991 protest)が起こった[72]。各種メディアの推計によると、抗議には10万人から15万人が参加していたと見られている[73]。この中で2人が死亡し、203人が負傷、108人が逮捕され、秩序回復のために戦車が投入された[74]

1996年11月から1997年2月にかけて、再び大規模な抗議行動(en:1996-1997 protests in Serbia)が行われた。これは地元の選挙における不正の疑惑を引き金とし、ミロシェヴィッチ政権への反対を表明するものであった[75]。抗議行動によって、ゾラン・ジンジッチがベオグラード市長となった。これは、第二次世界大戦以降で初めて、ユーゴスラビア共産主義者同盟やその後継のセルビア社会党出身ではない市長の誕生となった[76]

1999年コソボ紛争が激化し、NATOによる空爆が始まると、街は大きな打撃を受けた。セルビア国営放送の建物が攻撃を受け、国営放送本社への攻撃では16人の技術家が死亡した。このほか、ベオグラードでは各省庁の庁舎や複数の病院、ユーゴスラビア・ホテル、ウシュチェ・タワー(Ušće)、アヴァラ・テレビ塔Avala TV Tower)、中国大使館も攻撃を受けた[77]

2000年ユーゴスラビア連邦共和国大統領選挙(en)では、ベオグラードは大規模な路上抗議行動の場となった。50万人を超える人々が抗議行動に参加した(警察による推定では80万人、ミシャ・グレニー Misha Glenny によると100万人超)。抗議行動によってミロシェヴィッチ政権は転覆し、後にブルドーザー革命en)と呼ばれた[78]

呼称の変遷

[編集]

ベオグラードは歴史上、様々に異なる名前で呼ばれてきた。そして、その多くは「白い街」を意味している(ロシアベルゴロドも白い街を意味している)。

名前 注記
Singidūn(o)- ケルト人の部族スコルデスキScordisci)による呼称。dūn(o)-は駐屯地や要塞を意味する。singiには諸説あり、一説ではケルト語の「円」を意味するとされ、全体で「円形の要塞」の意味になる。別の節では、スコルデスキ以前にこの地を支配した、トラキア人の氏族と思われるシング(Sing)に由来すると考えられている[79]
Singidūnum ローマ帝国による征服で、ケルト語名をローマ化した呼称
Београд / Beograd 初めてのスラヴ語による記録は878年で、ブルガリア帝国のボリス1世からローマ教皇ヨハネ3世への手紙の中で白い街、あるいは白い要塞を意味する「Beligrad」として言及されている[80]
Alba Graeca Albaはラテン語の「白」に由来すると考えられる。
Alba Bulgarica ブルガリア帝国統治時代におけるラテン語呼称
Weißenburg / Griechisch-Weißenburg ドイツ語化した呼称。現代のドイツ語ではBelgradである[80]
Castelbianco イタリア語化した呼称[80]
Nandoralba 14世紀以前の中世ハンガリー王国での呼称[80]
Nándorfehérvár, Landorfehérvár 中世ハンガリーによる呼称で、「白い騎士の街」を意味する。現代のハンガリー語ではBelgrádである[80]
Veligrad(i)on or Velegrada/Βελέγραδα 東ローマ帝国による呼称。現代ギリシア語での呼称はΒελιγράδι / Veligradi
Dar Al Jihad オスマン帝国統治時代のアラビア語呼称。
Prinz-Eugenstadt 第二次世界大戦時、ナチス・ドイツの占領下となったベオグラードでナチスにより計画された呼称。この呼称は1717年にこの街を征服したオーストリアのプリンツ・オイゲンに因む[81]

政府と政治

[編集]
旧宮殿英語版。ベオグラード市議会が入っている。
ドラガン・ジラス英語版、ベオグラード市長(在任2008年8月 - )。

ベオグラードはセルビアの中ではどのにも属さない独立した地域であり、独自の市政府を持つ[15]。ベオグラード市長の地位は2004年から2007年9月27日に死去するまで民主党ネナド・ボグダノヴィッチNenad Bogdanović)であった。1996年には、第二次世界大戦後初めて民主的な市長選挙が行われ、ゾラン・ジンジッチが市長に選ばれた。

ベオグラード市議会は110の議席があり、市議の任期は4年である。2008年以降、市議会の多数派は国民議会と同様に、民主党-G17プラスセルビア社会党-セルビア統一年金者党の連立であり、さらに自由民主党やその他の小政党の支持も得ている。セルビア急進党セルビア民主党-新セルビアが野党の立場にある[82]

基礎自治体

[編集]

ベオグラードは17の基礎自治体(オプシュティナ)に分かれている[16]

ベオグラードを構成する自治体の多くはドナウ川およびサヴァ川の南側のシュマディヤŠumadija)地方に位置している。ゼムンノヴィ・ベオグラード(新ベオグラード)、スルチンの3自治体はサヴァ川の北側のスレム地方に位置し、パリルラドナウ川を越え、シュマディヤとバナト地方にまたがっている。

ベオグラードの自治体
名前 面積(km2 人口(1991年) 人口(2002年)
バライェヴォBarajevo 213 20,846 24,641
チュカリツァČukarica 156 150,257 168,508
グロツカGrocka 289 65,735 75,466
ラザレヴァツLazarevac 384 57,848 58,511
ムラデノヴァツMladenovac 339 54,517 52,490
ノヴィ・ベオグラードNovi Beograd 41 218,633 217,773
オブレノヴァツObrenovac 411 67,654 70,975
パリルラPalilula 451 150,208 155,902
ラコヴィツァRakovica 31 96,300 99,000
サヴスキ・ヴェナツSavski Venac 14 45,961 42,505
ソポトSopot 271 19,977 20,390
スタリ・グラードStari Grad 5 68,552 55,543
スルチンSurčin 285 Part of Zemun
municipality until 2004.
55,000 (est.)
ヴォジュドヴァツVoždovac 148 156,373 151,768
ヴラチャルVračar 3 67,438 58,386
ゼムンZemun 154 176,158 136,645
ズヴェズダラZvezdara 32 135,694 132,621
合計 3227 1,552,151 1,576,124
出典: セルビア共和国統計局[17]

住民

[編集]
夜のベオグラード中心部
聖サワ大聖堂セルビア国立図書館英語版

2002年国勢調査によると、ベオグラードの住民は民族別ではセルビア人が141万7187人、ユーゴスラビア人が2万2161人、モンテネグロ人が2万1190人、ロマが1万9191人、クロアチア人が1万0381人、マケドニア人が8,372人、ムスリム人が4,617人などとなっている[83]2007年の投票では、ベオグラードの人口はわずか5年で40万人の増加があったことが示唆されている[84]2008年8月2日の時点で、ベオグラードの情報統計局では1,542,773人の有権者が登録されており、その6年前の全人口を上回る有権者が登録されていることになり、2002年以降に急速な人口増加があったことが示されている[85]

ベオグラード情報統計局による2007年末の公式の推計では、街の人口は約1,630,000人となっている[3]

ベオグラードには旧ユーゴスラビア連邦各地の民族が居住している[2]。住民の多くはより小さい街や村部からの移住者や、1990年代ユーゴスラビア紛争によって故郷を失ったクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナコソボからの移民である[86]。また、1990年代中期からの移民によって1万人から2万人程度の[87]漢人がベオグラードに居住しているものと推定される。ノヴィ・ベオグラードのブロック70(Blok 70)地区は中華街として知られている[88][89]

ベオグラードにはまた多くのインドネシア人中東系の住民(主にシリアイランヨルダンイラクから、1970年代から1990年代にかけて学業のために移り住み、その後街に定住した人々である[90][91])、アフガニスタン人、イラクのクルド人難民も居住している[92]

ベオグラードには歴史的に複数の宗教の共同体が共存してきたが、街の宗教構成は比較的、均質である。セルビア正教会が圧倒的に最大であり、正教会の信者数は142万9170人である。この他では2万0366人がイスラム教、1万6305人がローマ・カトリック教会、3,796人がプロテスタントに属する。ベオグラードにはかつて一定規模のユダヤ教の共同体があったが、ナチス・ドイツによる占領統治を経て、多くがイスラエルに移住し、その人口は515人にまで減少した[2]

経済

[編集]

ベオグラードは、セルビアで最も経済的に発達した地域であり、セルビア国立銀行の本拠地である。Jat航空テレコム・スルビヤTelekom Srbija)、テレノル・セルビアTelenor Serbia)、デルタ・ホールディングDelta Holding)、セルビア電力産業公社の本社や、ソシエテ・ジェネラルASUSインテル[93]モトローラクラフトフーヅ[94]カールスバーグ[95]マイクロソフトOMVユニリーバZepter日本たばこ産業などの地域拠点が置かれている[96][97]

1990年代前半のユーゴスラビア社会主義連邦共和国からユーゴスラビア連邦共和国への移行期の混乱はベオグラードにも影響を与えた。セルビアの他地域と同様に、国際的な禁輸によって経済に深刻な影響がもたらされた。ユーゴスラビア・ディナールハイパーインフレは、記録史上最大であったといわれ[98][99]、街の経済を破壊した。ユーゴスラビアは1990年代中期にはハイパーインフレから脱却し、その後のベオグラードの経済成長は目覚しい。2000年代末の時点で、ベオグラードはセルビア全体の国内総生産の30%以上を占め、またセルビアの労働者人口の30%以上を占めている[100]。平均的な月収は47.500セルビア・ディナールであり、ユーロスタットEurostat)の手法によれば、コンピュータを保有する家庭は53%に上る[101][102]。同じ調査によると、ベオグラードの家庭の39.1%はインターネット接続を持っており、これはソフィアブカレストアテネなどの他のバルカン地域の首都よりも高い比率である[101]

文化

[編集]
1922年建造のセルビア科学芸術アカデミーの建物

ベオグラードでは多くの文化的催しが開催されている。代表的なものでは、ベオグラード映画祭(FEST)、ベオグラード演劇祭(BITEF)、ベオグラード夏季祭(BELEF)、ベオグラード音楽祭(BEMUS)、ベオグラード図書祭(Belgrade Book Fair)、ベオグラード・ビール祭などがある[103]

ノーベル文学賞を受賞したイヴォ・アンドリッチは、その最も有名な著作『ドリナの橋』をベオグラードで執筆した[104]。このほかのベオグラードの著名な作家には、ブラニスラヴ・ヌシッチBranislav Nušić)、ミロシュ・ツルニャンスキMiloš Crnjanski)、ボリスラヴ・ペキッチBorislav Pekić)、ミロラド・パヴィッチメシャ・セリモヴィッチMeša Selimović)などがいる[105][106][107]。セルビアの映画産業の多くはベオグラードを拠点としている。1995年パルム・ドールを受賞したエミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』はベオグラードで製作された。

街は1980年代ユーゴスラヴ・ニュー・ウェーブYugoslav New Wave)の中心の一つであった。VISイドリVIS Idoli)、エカテリーナ・ヴェリカEkatarina Velika)、シャルロ・アクロバタŠarlo Akrobata)はいずれもベオグラード出身である。このほかの著名なベオグラード出身のロック・アーティストには、リブリャ・チョルバRiblja Čorba)、バヤガ・イ・インストルクトリBajaga i Instruktori)などがある[108]。ベオグラードは、スター歌手のツェツァに代表されるような、旧ユーゴスラビア地域で流行しているターボ・フォークと呼ばれるジャンルの音楽の中心地である。ベオグラードはまたセルビアのヒップ・ホップSerbian hip hop)の中心でもあり、ベオグラードスキ・シンディカトBeogradski Sindikat)、シュカボŠkabo)、マルチェロMarčelo)や、その他バッシヴィティ・ミュージック所属アーティストなどがベオグラードを拠点としている[109][110]

ベオグラードには多くの劇場があり、その中で特に著名なものとしてはベオグラード国立劇場National Theatre)、テラジイェ劇場Theatre on Terazije)、ユーゴスラヴ・ドラマ劇場Yugoslav Drama Theatre)、ズヴェズダ劇場(Zvezdara Theatre)、アテリェ212(Atelier 212)などがある。セルビア科学芸術アカデミーセルビア国立図書館もベオグラードを拠点としている。ベオグラードには、ベオグラード国立劇場とゼムンのマドレニヤヌム(Madlenijanum)という2つのオペラ・ハウスがある。

ベオグラードにはまた多くの外国の文化的施設が集まっており、セルバンテス文化センターゲーテ・インスティトゥートGoethe-Institut)、フランス文化センター(Centre Culturel Français)、オーストリア文化フォーラム(Österreichischen Kulturforums)、ブリティッシュ・カウンシルBritish Council)、ロシア科学文化センター(Российский центр науки и культуры)、孔子学院、カナダ文化センター(Canadian Cultural Center)、イタリア文化会館(Istituto Italiano di Cultura)、ヘレニック・ハウスHellenic House)、イラン・イスラム共和国文化センターなどがある。

ユーロビジョン・ソング・コンテスト2007年大会におけるマリヤ・シェリフォヴィッチの優勝に伴い、翌年の2008年大会はベオグラードで開催された[111]

博物館

[編集]
ミロスラヴの福音Miroslav's Gospel)、2005年UNESCO世界の記憶に加えられた12世紀の記録物。
鉄道博物館

ベオグラードで最高の博物館といわれるのは、1844年に設立されたセルビア国立博物館であり、40万点を超える展示物を収蔵している(5600を超える絵画、8400を超える図画および印刷物を持つ)。収蔵されている展示物の中には、多くの外国の名作や、有名なミロスラヴの福音Miroslavljevo Jevanđelje)が含まれる[112]軍事博物館は、ローマ時代からユーゴスラビア軍に撃墜されたF-117ステルス機まで、2万5千を超える幅広い軍事に関する展示物を収蔵している[113][114]ベオグラード航空博物館Museum of Aviation in Belgrade)では、200を超える航空機が収められ、うち50が展示されている。一部には、Fiat G.50などの現存する数少ない型式の物もある。この博物館はまた、アメリカ合衆国NATOの戦闘機、F-117やF-16なども展示されている[115]民俗誌博物館Ethnographic Museum)は1901年に設立され、15万点を超える展示物はバルカン半島、特に旧ユーゴスラビア諸国の農村部や都市部の文化を示している[116]コンテンポラリー・アート美術館は、1901年以降にユーゴスラビア地域で製作された8,540点ほどの作品を収蔵している[117]ニコラ・テスラ博物館は1952年に設立され、単位テスラの名前の由来となった科学者ニコラ・テスラの個人所有物を収蔵している。この博物館は、16万点ほどの文書の原著や、その他5,700点ほどの物品を収蔵している[118]ヴク・ドシテイ博物館は、19世紀のセルビア文章語改革の推進者のヴーク・カラジッチと、初代のセルビア教育大臣のドシテイ・オブラドヴィッチDositej Obradović)に関する物品を収蔵している[119]。ベオグラードにはまたアフリカ芸術博物館 (セルビア)もあり、西アフリカ由来の大規模なコレクションを持っている[120]

9万5千点ほどの国内外の映画の記録を収蔵するユーゴスラビア映画保管所Yugoslav Film Archive)は、地域で最大、また全世界でも10本の指に入る規模となっている[121]。ユーゴスラビア映画保管所を運営する機関はまた、映写室と展示ホールも持っている。保管所の長期にわたる保管の問題は2007年に、新しい保管庫を作ることで解決された[122]

ベオグラード市博物館Museum of the City of Belgrade)は、都心のネマニヤ通りの新しいビルディングに移転予定である。博物館にはベオグラード福音(1503年)、コソボの戦いプレートアーマーをはじめとする、多くの絵画や図画が収蔵されている。新しい「科学技術博物館」の建設が2011年に着工された。

建築

[編集]
セルビア国会議事堂(1936年)とセルビア郵政(1938年)
ベオグラードタワー

ベオグラードの建築は幅広く、ゼムン中心では典型的な中欧風の街並みが見られる[123]一方、ノヴィ・ベオグラードにはより現代的で巨大な建築物が並ぶ。ベオグラードで最古の建造物はカレメグダン公園(Kalemegdan)に残されている。カレメグダン公園の外では、その地理的関係、および度重なる戦乱や破壊のため、19世紀よりも古い建物はない[124]。ベオグラードで最古の公共施設は平凡なトルコ式の墓(テュルベturbe)であり、最古の家屋はドルチョルDorćol)にある18世紀の地味な粘土造りのものである[125]。西側からの影響の流入は19世紀に始まり、それまでのオリエンタルな街並みから一変して、新古典主義ロマン主義アカデミック様式の影響を受けた当時のヨーロッパの街並みへと造りかえられた。19世紀後半には外来の建築家に代わってセルビアの建築家が活躍するようになり、ベオグラード国立劇場National Theatre)、旧宮殿Old Palace)、聖天使首ミハイル大聖堂Saborna Crkva Sv. Arhangela Mihaila)などが建てられた。20世紀初期には、アール・ヌーヴォーの影響を受けた国民議会セルビア国立博物館National Museum)などが建てられた[124]

ネオ・ビザンティン建築の要素はヴク協会やコソヴスカ通り(Kosovska)の旧郵便局、あるいはグラチャニツァ修道院Gračanica monastery)を基にした聖マルコ聖堂聖サワ大聖堂などの聖堂にも用いられている[124]

共産主義時代、地方からベオグラードへの急速な人口流入に伴い、多くの住居を早く安価で建設する必要が生じた。その結果、ノヴィ・ベオグラードブロコヴィblokovi)に見られるようなブルータリズムbrutalist architecture)や、社会主義リアリズムが一時の間支配的となり、貿易連合ホール(Dom sindikata)のような建物が出現した[124]。しかし、1950年代半ばからはモダニズムの傾向が強まり、その後もベオグラードでは支配的となっている。

観光

[編集]
クネズ・ミハイロヴァ通り、街の歩行者区域の中心
カレメグダン英語版公園
ガルドシュ・クラ、ゼムン
ベオグラードの要塞

ベオグラードの歴史的地域や建築物は街の重要な観光資源である。その中には、聖サワ大聖堂ベオグラード植物園旧宮殿クネズ・ミハイロヴァ通りスカダルリヤテラジイェゼムンセルビア国会議事堂セルビア国立博物館National Museum)と隣接するベオグラード国立劇場National Theatre)、ニコラ・パシッチ広場Nikola Pašić Square)、学生広場Students' Square)、カレメグダン要塞(Kalemegdan)などがある。ベオグラードには川の両岸とも多くの公園、記念碑、博物館、カフェ、レストラン、店舗がある。アヴァラ山Avala)の無名英雄記念碑Monument to the Unknown Hero)からは街を一望できる。クチャ・ツヴェチャKuća Cveća、花の家)と呼ばれるヨシップ・ブロズ・ティトーの墓や、近接するトプチデル公園Topčider)やコシュトニャク公園Košutnjak)も、特に旧ユーゴスラビア諸国からの訪問者の間では人気が高い。

ベリ・ドヴォルBeli Dvor、白の宮殿)はカラジョルジェヴィッチ王家の宮殿であり、訪問者に開放されている。宮殿にはレンブラント・ファン・レインニコラ・プッサンセバスチャン・ブルドンパオロ・ヴェロネーゼカナレットビアージョ・ダントーニオジュゼッペ・マリア・クレスピフランツ・ヴィンターハルターイヴァン・メシュトロヴィッチIvan Meštrović)などの作品が収められている。

アダ・ツィガンリヤは、かつてはサヴァ川に浮かぶ中洲の島であり、ベオグラード最大のスポーツ・レクリエーション施設がある。現在、島は陸地と結ばれ、川の中に人造の池を形成している。アダ・ツィガンリヤは暑い夏季の間、多くのベオグラード市民が訪れる。アダには、7kmに及ぶ長い浜と、多様なスポーツ施設があり、ゴルフサッカーバスケットボールバレーボールラグビー野球テニスなどができる[126]。夏の間、ここには毎日20万から30万人が訪れる。クラブは24時間営業し、音楽ライブや夜通しのビーチ・パーティーを開催している。バンジージャンプ水上スキーペイントボールといったエクストリーム・スポーツも可能である[127]。アダには複数の周回コースがあり、サイクリングやジョギング、散歩も可能である[128][129]。アダのほかに、ベオグラードには川の中に全部で16の島があり[130]、その多くは未使用である。その中の一つに、サヴァ川とドナウ川の合流地点にある大戦争島Great War Island)があり、手付かずの野生動物、特に野鳥の楽園となっている[131]。この大戦争島と、近接する小戦争島Small War Island)を含む一体は、ベオグラード市政府によって自然保護区として保護されている[132]

ナイトライフ

[編集]

ベオグラードでは多様なナイトライフが生息することで知られ、街の各所に明け方まで営業しているクラブがある。代表的なベオグラードらしいナイトライフには、サヴァ川やドナウ川の川岸に沿って展開するはしけ(splavovi)がある[133][134][135]

週末にベオグラードを訪れる周辺諸国 - ボスニア・ヘルツェゴビナクロアチアスロベニアなど - からの観光客は、自国の首都よりもベオグラードでのナイトライフをより好み、その理由としてベオグラードの友好的な雰囲気や素晴らしいクラブ、バー、安い飲料、言語の壁がないこと(これらの国々の人々は多くがベオグラードの言葉を問題なく理解できる)、夜間営業に対する規制が緩いことなどが挙がる[136][137]

スカダルリヤ、ベオグラードの古いボヘミアニズム様式の地区

アカデミヤ(Akademija)やKST(Klub studenata tehnike)などの有名なクラブがベオグラード大学University of Belgrade)の電気工学科の施設の地下にある[138][139]。最も良く知られたサブカルチャーの拠点の一つにSKC(学生文化センター)がある。SKCはベオグラードに高くそびえ立つベオグラジャンカBeograđanka)の真向かいにある。地元の、あるいは国外の数多くの有名なバンドがここでコンサートを開催している。SKCではまた多くの展示や公開討論、議論などが行われている[140]

セルビア北部の都市部で見られるような、スタログラドスカ・ムジカStarogradska muzika、旧市街)の名で知られる伝統音楽に彩られた、より伝統的なセルビアのナイトライフは、ベオグラードのボヘミアニズムの地区であるスカダルリヤで最も盛んである。スカダルリヤ地区は、19世紀から20世紀初頭にかけての詩人や芸術家らが集まった地区である。スカダル通りやその周辺地区には、カファナと呼ばれる、ベオグラードで最も優れた、伝統的なレストランが立ち並んでいる[141]。地区の端には、19世紀前半に操業したベオグラードで最も古いビール醸造所がある[142]。街で最も古いカファナの一つに?(ズナク・ピタニャ Znak pitanja)が知られる[143]

イギリスの『タイムズ』は、ベオグラードを「ヨーロッパで最良のナイトライフの街」と表現した[144]

食文化

[編集]

オスマン帝国やオーストリア=ハンガリー帝国の統治を受けた歴史もあり、トルコ料理ハンガリー料理の影響がみられ、チェヴァプチチなどが名物である[18]

スポーツ

[編集]
ベオグラード・アリーナ

ベオグラードにはおよそ1千のスポーツ施設があり、多くの施設が様々なレベルのスポーツ・イベントに使用できる[145]。ベオグラードでは2005年バスケットボール男子欧州選手権2005年バレーボール男子欧州選手権2006年ヨーロッパ水球選手権European Water Polo Championship)、2007年のEuropean Youth Olympic Festivalなどの大規模なイベントも開かれている。ベオグラードは、モンテレイポズナンを退けてユニバーシアード2009年夏季大会の開催地に選ばれた[146]。ベオグラードは過去に2つの大きな大会の誘致に失敗している。1つは、1992年夏季オリンピックであり、3回目の国際オリンピック委員会の投票で破れ、開催地はバルセロナとなった。1996年夏季オリンピックでも、最終的に開催地はアトランタとなった[147][148]

ベオグラードはセルビアで最も規模の大きく人気の高い2つのサッカークラブ、レッドスター・ベオグラードパルチザン・ベオグラードをはじめとする、複数のクラブの拠点となっている。ベオグラードの2つの主要なスタジアムにはスタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダRed Star Stadium)とスタディオン・パルチザーナPartizan Stadium)がある[149]アレクサンダル・ニコリッチ・ホールAleksandar Nikolić Hall)とベオグラード・アリーナŠtark Arena)はKKレッドスターKKパルチザンなどのバスケットボールの試合に使われる。また、ベオグラード・アリーナは2008年にはユーロビジョン・ソング・コンテスト2008の会場ともなった[150][151]タシュマイダン・スポーツ・センターTašmajdan Sports Centre)は水球の試合に使われる。又、2年に1度に開催される世界水泳選手権の記念すべき第1回大会がこのベオグラード市にて開催され世界水泳・発祥の地と言われる。

ベオグラードのランドマークの高さ
ドナウ川(右端)へと注ぎ込むサヴァ川

2022年3月7日、この地で開催された室内の陸上競技の大会で、スウェーデンアルマンド・デュプランティスが棒高跳びで6.19mの世界新記録を樹立した。

メディア

[編集]

ベオグラードはセルビアで最も重要なメディアの拠点である。ベオグラードには全国的な公共放送であるセルビア国営放送(RTS)の本社がある[152]。RTSのレコード・レーベルであるPGP RTSもベオグラードに本社を置いている[153]。民間で最大の放送局はRTVピンクRTV Pink)であり、同局はセンセーショナルで低俗とも評される人気の高い娯楽番組で知られている。民間で対抗する主要なメディアはB92であり、テレビ放送局、ラジオ放送局、音楽・書籍出版事業、そしてセルビアのインターネットで最も人気の高いウェブサイトを持っている[154][155]。ベオグラードから放送しているこの他のテレビ放送局には、TVコシャヴァKošava)、TVアヴァラAvala)、フォックス放送があるほか、ベオグラード地域のみに放送される放送局もある。スポーツのSOS channel、音楽のMetropolis、芸術のArt TV(Art TV)、映画のCinemania、子供向け番組のHappy TV(Happy TV)などの専門チャンネルもある。

ベオグラードで発行される、広く流通している日刊の新聞には、ポリティカブリツBlic)、ヴェチェルニェ・ノヴォスティVečernje novosti)、グラス・ヤヴノスティGlas javnosti)、プレスPress (newspaper))、スポルツキ・ジュルナルSportski žurnal)などがある。このほかにベオグラードで発行される日刊紙にはダナスクリルKurir)などがある。ノヴィ・プラメンNovi Plamen)は、現在最も左翼的な雑誌である。無料の日刊紙24サタ24 sata)は2006年に創刊された。

教育

[編集]
ベオグラード大学の建築・土木工学部の建物

ベオグラードには2つの国立大学と、複数の私立の高等教育機関がある。1808年に創設されたベオグラード高等教育学校Belgrade Higher School)は、セルビア、そしてバルカン半島全域で初めての高等教育の機関であった[156]

1841年にはこれに続いて、クラグイェヴァツからベオグラードに高等教育機関が移転し、大学校を合併してベオグラード大学University of Belgrade)の前身となった[157]。9万人を超える学生がこの大学で学んだ[158]。ベオグラード大学法学部(University of Belgrade's Law Schoolは、バルカン半島で最も古い法の教育機関の一つである。

ベオグラードには195の初等学校、85の中等学校がある。初等学校のうち、162は普通校、14は特殊学校、15は芸術学校、4は大人向けである。中等学校のうち51は職業訓練学校、21はギムナジウム、8は芸術学校、5は特殊学校である。生徒の総数は23万人、職員は2万2千人、総計で5百を超える建物があり、総面積は1100千m2に達する[159]

交通

[編集]
ベオグラードの路面電車
セルビアと日本の国旗が描かれた『ヤパナッツ』

ベオグラードにはバス(都心に118路線、郊外に300路線以上が走る)、路面電車(10路線)、トロリーバス(6路線)を中心とした広範な公共交通システムがある[160]。ベオグラードの交通システムはGSPベオグラード(ベオグラード市公共輸送公社)、SPラスタSP Lasta)およびその他の民間のバス会社によって運営されている。ベオグラードにはまた、コミュータ鉄道(commuter rail)網のベオヴォズBeovoz)や、都市鉄道のBG Vozがあり、セルビア鉄道により運行されている。ベオグラードの中央駅からは、他のヨーロッパ諸国の首都や、セルビア各地の都市へと鉄道網が結ばれている。長距離バスでの旅行も一般的であり、ベオグラードからセルビア各都市へは毎日、バスの便がある。高速道路網によって、北へはヴォイヴォディナノヴィ・サドハンガリーの首都ブダペストへ、南へはニシュへ、西へはザグレブへと結ばれている。2つの主要河川、ドナウ川とサヴァ川の合流地点に位置するベオグラードには数多くの橋があるが、最も主要な橋はブランコ橋Branko's bridge)とガゼラ橋Gazela)であり、どちらもノヴィ・ベオグラード地区と都心を結んでいる。アダ橋Ada Bridge)はノヴィ・ベオグラード地区とチュカリツァ地区を結んでいる。

市内を走る黄色いバスは2003年に日本の無償資金協力で導入されたため、「ヤパナッツ(日本人)」と呼ばれている[161]

アダ橋

ベオグラード港はドナウ川に面する河川港で、貨物を取り扱える[162]。街からはベオグラード・ニコラ・テスラ空港IATAコード: BEG)も利用でき、同空港は街の中心から西に12kmのスルチン近くにある。1986年には3百万人に迫る旅客が利用していたが、1990年代には旅客数は減少した[163]。2000年代に復興が進むと、旅客数は2004年から2005年にかけては2百万人に迫った[164]2006年の11月半ばには年初からの旅客数が2百万人を上回り[165]2007年には250万人の利用者数があった[166]

サヴァ川

街の拡大と自動車数の増加に伴い、渋滞は深刻な問題となっている。E70号線E70)とE75号線を結ぶベオグラード・バイパスが開通すれば、問題は緩和されると期待されている[167]。さらに、サヴァ川に架かる橋を含む都心部の半環状線が計画されており、通勤が容易になり、ガゼラ橋やブランコ橋の過負荷を軽減するものと期待されている[168]。ベオグラードでは2008年に3つの新しい橋の建設が着手された。2本はサヴァ川、1本はドナウ川に架かる橋である。ドナウ川にはさらに2本の新しい橋の建設が計画されている。

国際協力

[編集]

以下はベオグラードと公式に姉妹都市提携を結んでいる都市である[169][170][171]

都市 地域 時期
イギリスの旗 イギリス コヴェントリー ウェスト・ミッドランズ 1957
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 シカゴ イリノイ州 2005
パキスタンの旗 パキスタン ラホール パンジャーブ州 2007
イスラエルの旗 イスラエル テルアビブ テルアビブ地区 1990
オーストリアの旗 オーストリア ウィーン ウィーン 2003

さらに、ベオグラードを構成する自治体の一部は、以下の都市やその下位自治体と姉妹都市提携を結んでいる。

都市 地域 時期 形式
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 デイトン オハイオ州 1966 Agreement on Friendship and Cooperation
ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ バニャ・ルカ スルプスカ共和国 2005 Agreement on Cooperation
中華人民共和国の旗 中華人民共和国 北京市 1980 Agreement on Cooperation
トルコの旗 トルコ アンカラ Ankara 1978 Agreement on Cooperation and Friendship
アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 ドバイ 2004 Agreement on Cooperation
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン バクー Baku 2002 Agreement on Cooperation
パキスタンの旗 パキスタン イスラマバード 2000 Memorandum of Agreement, City to City Programme
ロシアの旗 ロシア モスクワ 中央連邦管区 2002 Programme of Cooperation
イタリアの旗 イタリア ローマ ラツィオ州 1971 Agreement on Friendship and Cooperation

また、以下の旧ユーゴスラビア諸国の首都との基本合意に調印している。

ベオグラード市は国内外から数多くの栄誉賞を受けており、1920年フランスレジオンドヌール勲章チェコスロバキアWar CrossセルビアKarađorđe's Star with Swordsユーゴスラビア社会主義連邦共和国の人民英雄勲章(Order of the National Hero1974年10月20日第二次世界大戦でのナチス・ドイツによる占領を打ち破った記念日)[172]2006年、英国『フィナンシャル・タイムズ』の雑誌『fDi Magazine』はベオグラードに「南ヨーロッパの未来」賞を付与した[173][174]

出典

[編集]
  1. ^ Geographical Position”. Official website of City of Belgrade. 2007年7月10日閲覧。
  2. ^ a b c Statistical Office of the Republic of Serbia (2006 estimate) (Serbian) (PDF). Национална или етничка припадност - подаци по насељима (Procena stanovnistva 2007 ed.). Belgrade: Statistical Office of the Republic of Serbia. p. 14. http://www.zis.bg.gov.yu/upload/G_2007S%2003.pdf 2006年10月29日閲覧。 
  3. ^ a b Statistički godišnjak Beograda” (PDF). Zavod za informatiku i statistiku Grada Beograda. p. 64 (2007年). 2009年2月7日閲覧。
  4. ^ Budapest Info”. www.budapestinfo.hu. BUDAPEST BRAND P.L.C.. 2024年3月22日閲覧。
  5. ^ Discover Belgrade” (セルビア語). Град Београд - Званична интернет презентација | Discover Belgrade. 2024年3月22日閲覧。
  6. ^ Belgrade, capital city
  7. ^ Stone Pages • Archaeo News”. www.stonepages.com. 2024年3月22日閲覧。
  8. ^ Prehistoric women had passion for fashion | World | Reuters
  9. ^ a b http://p104.ezboard.com/Skordiski/fistorijabalkanafrm27.showMessage?topicID=209.topic
  10. ^ http://www.qtours.dk/index.php?option=com_content&task=view&id=54&Itemid=97
  11. ^ a b Rich, Dr John; Rich, John (2002-01-04) (英語). The City in Late Antiquity. Taylor & Francis. ISBN 978-0-203-13016-2. https://books.google.co.jp/books?id=_uMP91pRf0UC&pg=PA113&lpg=PA113&dq=singidunum+colonia&source=bl&ots=Pmy6FibAUe&sig=x_p0gw_9V_qg0Prr3HJ_tX6gHhg&hl=en&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y 
  12. ^ The Times & The Sunday Times” (英語). www.thetimes.co.uk (2024年3月22日). 2024年3月22日閲覧。
  13. ^ belgradenet.com - This website is for sale! - belgradenet Resources and Information.”. ww16.belgradenet.com. 2024年3月22日閲覧。
  14. ^ Turkish and Austrian Rule” (セルビア語). Град Београд - Званична интернет презентација | Turkish and Austrian Rule. 2024年3月22日閲覧。
  15. ^ a b Assembly of the City of Belgrade”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  16. ^ a b Urban Municipalities”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  17. ^ a b 2005 Municipal indicators of Republic of Serbia”. Statistical Office of the Republic of Serbia. 2009年11月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月17日閲覧。
  18. ^ a b [https://globe.asahi.com/article/14437693 At the scene 現場を旅する ベオグラード(セルビア)大国の興亡刻む古都『朝日新聞グローブ』No.245(2021年9月)17面
  19. ^ Geographical Position”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  20. ^ Natural Features”. Official site. 2007年7月16日閲覧。
  21. ^ Gburčik, Verica; Gburčik, Valentina; Marčetić, Ljubinka; Tošović, Slobodan. Topoclimate and air pollution effects on respiratory diseases occurrences in Belgrade (PDF). Institute of Public Health of Belgrade. 2010年11月21日閲覧
  22. ^ Climate”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  23. ^ m&c News (2007年7月24日). “Record-breaking heat measured in Belgrade”. 2012年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年8月10日閲覧。
  24. ^ http://www.mherrera.org/temp.htm
  25. ^ Monthly and annual means, maximum and minimum values of meteorological elements for the period 1981 - 2010-Belgrade” (Serbian). Republic Hydrometeorological Service of Serbia. 8 September 2012閲覧。
  26. ^ Nikola Tasić; Dragoslav Srejović, Bratislav Stojanović (1990). “Vinča and its Culture”. In Vladislav Popović. Vinča: Centre of the Neolithic culture of the Danubian region. Belgrade. オリジナルの2006年9月23日時点におけるアーカイブ。. http://www.rastko.org.yu/arheologija/vinca/vinca_eng.html#_Toc504111710 2006年10月28日閲覧。 
  27. ^ a b History (Ancient Period)”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  28. ^ https://books.google.co.jp/books?id=iWlpqkVMX2YC&pg=PA5&lpg=PA5&dq=Vin%C4%8Da+signs+earliest+alphabet&source=web&ots=fujg0dANsG&sig=WIElz2jkSAwDGHT8dD4KJGcw6e4&hl=en&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y
  29. ^ Constantine I - Britannica Online Encyclopedia
  30. ^ 柴(1998) p.54
  31. ^ Philologic Results
  32. ^ 柴(1998) p.55
  33. ^ City of Belgrade - Ancient Period
  34. ^ 柴(1998) p.61
  35. ^ History of Zemun
  36. ^ The History of Belgrade
  37. ^ a b c d How to Conquer Belgrade - History Archived 2009年6月16日, at the Wayback Machine.
  38. ^ The History of Belgrade
  39. ^ a b History (Medieval Serbian Belgrade)”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  40. ^ Battle of Maritsa”. Encyclopaedia Britannica. 2007年7月10日閲覧。
  41. ^ Battle of Kosovo”. Encyclopaedia Britannica. 2007年7月10日閲覧。
  42. ^ エドガー・ヘッシュ、訳:佐久間穆 (1995年5月). バルカン半島. 日本、東京: みすず書房. ISBN 978-4-622-03367-7 
  43. ^ Ćorović, Vladimir (1997). “V. Despot Đurađ Branković” (Serbian). Istorija srpskog naroda. Banja Luka / Belgrade: Project Rastko. ISBN 86-7119-101-X. http://www.rastko.org.yu/rastko-bl/istorija/corovic/istorija/4_5_l.html 2007年7月17日閲覧。 
  44. ^ a b The History of Belgrade
  45. ^ Tom R. Kovach. “Ottoman-Hungarian Wars: Siege of Belgrade in 1456”. Military History magazine. 2007年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月10日閲覧。
  46. ^ Hungary: A Brief History
  47. ^ https://books.google.co.jp/books?id=r0_gJ7wEXWsC&pg=PA145&lpg=PA145&dq=belgrade+forest+istanbul+serbs&source=web&ots=gXc8ac4BeK&sig=dXT7OkpPonyBeJFBbYL3wg9GP54&hl=en&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y
  48. ^ a b History (Turkish and Austrian Rule)”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  49. ^ Welcome to Frosina.org :: An Albanian Immigrant and Cultural Resource
  50. ^ Amfilohije Radović (1989年). “Duhovni smisao hrama Svetog Save na Vračaru (Online book reprint)” (Serbian). Janus, Belgrade. 2007年7月5日閲覧。
  51. ^ University of Bahçeşehir
  52. ^ Belgrade Fortress: History
  53. ^ Medaković, Dejan (1990). “Tajne poruke svetog Save" Svetosavska crkva i velika seoba Srba 1690. godine”. Oči u oči. Belgrade: BIGZ (online reprint by Serbian Unity Congress library). ISBN 978-8613009030. オリジナルの2009年1月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090125184014/http://www.suc.org/culture/library/Oci/tajne-poruke-svetoga-save-16-03-03.html 2007年5月17日閲覧。 
  54. ^ a b History (Liberation of Belgrade)”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  55. ^ Pavkovic, Aleksandar (2001-10-19). Nations into States: National Liberations in Former Yugoslavia. The Australian National University. 
  56. ^ History of Kragujevac”. Official website of Kragujevac. 2009年12月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月17日閲覧。
  57. ^ History (Important Years Through City History)”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  58. ^ a b History (The Capital of Serbia and Yugoslavia)”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  59. ^ Jan Lahmeyer (2003年2月3日). “The Yugoslav Federation: Historical demographical data of the urban centers”. www.populstat.info. 2007年5月17日閲覧。
  60. ^ "Belgrade and Smederevo" in the 1913 Catholic Encyclopedia - Retrieved on 2007-10-16
  61. ^ Kosanovic, Dejan. “Serbian Film and Cinematography (1896-1993)”. The history of Serbian Culture. Porthill Publishers. ISBN 1-870732-31-6. http://www.rastko.org.yu/isk/dkosanovic-cinematography.html 2007年7月10日閲覧。 
  62. ^ Balkanology :: Serbia :: Belgrade
  63. ^ Balkanology :: Serbia :: Vojvodina
  64. ^ ISBN 86-17-09287-4: Kosta Nikolić, Nikola Žutić, Momčilo Pavlović, Zorica Špadijer: Историја за трећи разред гимназије, Belgrade, 2002, pg. 144
  65. ^ Petrović, Dragan (2001). “Industrija i urbani razvoj Beograda” (PDF). Industrija 21, No. 1–4: 87–94. ISSN 0350-0373. http://nainfo.nbs.bg.ac.yu/sfoa/pdfovi/0350-03730101087P.pdf 2007年7月10日閲覧。. 
  66. ^ Twentieth Century - Innovations in Belgrade”. Serbia-info.com (Government of Serbia website). 2008年7月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月21日閲覧。
  67. ^ Stevenson, William (1976). A Man Called Intrepid, The Secret War. New York: Ballantine Books. pp. 230. ISBN 0-345-27254-4 
  68. ^ THE GERMAN CAMPAIGN IN THE BALKANS (SPRING 1941): PART II
  69. ^ 独軍、ベオグラードに突入(『朝日新聞』昭和16年4月12日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p387-p388 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  70. ^ Rubenstein, Richard L; Roth, John king (2003). Approaches to Auschwitz: The Holocaust and Its Legacy. Westminster John Knox Press. pp. 170. ISBN 0664223532. http://www.questia.com/library/book/approaches-to-auschwitz-the-holocaust-and-its-legacy-by-john-k-roth-richard-l-rubenstein.jsp 
  71. ^ Bioterrorism: Civil Liberties Under Quarantine”. NPR (2001年10月23日). 2007年5月19日閲覧。
  72. ^ Prvi udarac Miloševićevom režimu” (Serbian). Danas (2006年3月9日). 2009年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月10日閲覧。
  73. ^ James L. Graff (1991年3月25日). “Yugoslavia: Mass bedlam in Belgrade”. TIME. 2007年7月10日閲覧。
  74. ^ Srbija na mitinzima (1990–1999)” (Serbian). Vreme (1999年8月21日). 2007年7月10日閲覧。
  75. ^ History (Disintegration Years 1988–2000)”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  76. ^ Jane Perlez (1997年2月23日). “New Mayor of Belgrade: A Serbian Chameleon”. The New York Times. 2007年5月17日閲覧。
  77. ^ NATO bombing”. Official website. 2007年5月17日閲覧。
  78. ^ Glenny, Misha (2000年10月30日). “Can Serbia's new leaders overcome the legacy of Slobodan Milosevic?”. The New Yorker. 2007年7月10日閲覧。
  79. ^ Ancient Period”. Official website. 2008年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年1月31日閲覧。
  80. ^ a b c d e History (Byzantine Empire)”. Official website. 2007年5月17日閲覧。
  81. ^ en:Template:Cite webOpasno neznanje ili nešto više”. Danas. 2008年12月29日閲覧。
  82. ^ Councilors of the Assembly of the City of Belgrade”. Official site. 2007年7月16日閲覧。
  83. ^ Facts (Population)”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  84. ^ Blic Online | Tema dana | Svi putevi vode u Beograd
  85. ^ Birački spisak”. Zavod za informatiku i statistiku Grada Beograda (2007年). 2009年2月28日閲覧。
  86. ^ Refugee Serbs Assail Belgrade Government: The Washington Post, Tuesday, June 22, 1999.
  87. ^ Novosti | Vecernje novosti | Beograd
  88. ^ Kinezi Marko, Miloš i Ana” (Serbian). Kurir (2005年2月20日). 2007年3月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月18日閲覧。
  89. ^ Biljana Vasić (2001年1月15日). “Kineska četvrt u bloku 70” (Serbian). Vreme. 2007年7月18日閲覧。
  90. ^ Vesna Peric Zimonjic (2005年12月7日). “A unique friendship club in Belgrade”. Dawn - International. 2007年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月17日閲覧。
  91. ^ Francesca Ciriaci (1999年4月11日). “Government, public diverge in assessment of Kosovo crisis”. Jordan Times. 2012年1月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月18日閲覧。
  92. ^ CHINESE AND IRAQI IMMIGRANTS RECEIVE QUIET WELCOME”. international (2007年5月31日). 2007年10月4日閲覧。
  93. ^ E kapija - Centar kompanije `Intel` za Balkan u Beogradu - Srbija deo `Intel World Ahead Program`
  94. ^ アーカイブされたコピー”. 2007年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年12月16日閲覧。
  95. ^ アーカイブされたコピー”. 2008年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年12月16日閲覧。
  96. ^ JTI u Srbiju ulaže oko $100 mil.” (Serbian). B92 Biz (2007年4月24日). 2007年5月19日閲覧。
  97. ^ Beograd - Bankarski razvojni centar” (Serbian). 24x7 business news (2006年3月29日). 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  98. ^ Watkins, Thayer. “The Worst Episode of Hyperinflation in History: Yugoslavia 1993-94”. Episodes of Hyperinflation. San José State University Department of Economics. 2007年7月26日閲覧。
  99. ^ Taylor, Bryan. “Countries that Suffered the Greatest Inflation in the Twentieth century” (Word document). The Century of Inflation. Global Financial Data. pp. 8, 10. 2007年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月26日閲覧。
  100. ^ Privreda Beograda” (Serbian). Economic Chamber of Belgrade. 2008年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月10日閲覧。
  101. ^ a b http://www.politika.rs/rubrike/Drustvo/U-Srbiji-sve-vishe-rachunara.sr.html
  102. ^ Almost 98% of companies in Serbia are computerised - Economy.co.yu
  103. ^ Culture and Art (Cultural Events)”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  104. ^ The biography of Ivo Andrić”. The Ivo Andrić Foundation. 2009年12月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月18日閲覧。
  105. ^ Borislav Pekić - Biografija” (Serbian). Project Rastko. 2007年5月19日閲覧。
  106. ^ Joseph Tabbi (2005年7月26日). “Miloš Crnjanski and his descendents”. Electronic Book Review. 2007年7月10日閲覧。
  107. ^ Meša Selimović - Biografija” (Bosnian). Kitabhana.net. 2007年7月10日閲覧。
  108. ^ Riblja Čorba” (Serbian). Balkan Media.com. 2007年7月10日閲覧。[リンク切れ]
  109. ^ Aleksandar Pavlić (2005年2月9日). “Beogradski Sindikat: Svi Zajedno” (Serbian). Popboks magazine. 2007年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月23日閲覧。
  110. ^ S. S. Todorović (2004年1月30日). “Liričar među reperima” (Serbian). Balkanmedia. 2007年5月23日閲覧。[リンク切れ]
  111. ^ Serbian ballad wins Eurovision Song Contest - Belgrade hosts in 2008”. Helsingin Sanomat (2007年5月14日). 2007年7月10日閲覧。
  112. ^ Tatjana Cvjetićanin. “From the history of the National Museum in Belgrade”. National Museum of Serbia. 2006年9月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月27日閲覧。
  113. ^ Museums”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  114. ^ World Guide:Belgrade”. Lonely Planet. 2007年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月27日閲覧。
  115. ^ Lična karta Muzeja ratnog vazduhoplovstva” (Serbian). Museum of Air force Belgrade. 2007年5月19日閲覧。
  116. ^ Museums 3”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  117. ^ Museums 2”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  118. ^ About the museum”. Nikola Tesla Museum. 2007年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月10日閲覧。
  119. ^ City of Belgrade - Museums 1”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  120. ^ ural institutions:Museum of African Art”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  121. ^ Action programme 2006 for Serbia: Support to the Yugoslav Film Archive” (PDF). European Agency for Reconstruction (2006年1月1日). 2008年3月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月10日閲覧。
  122. ^ New Depository for the Yugoslav Film Archive’s treasure”. SEECult.org, Culture Portal of Southeastern Europe (2007年6月7日). 2007年6月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月10日閲覧。
  123. ^ Nicholas Comrie, Lucy Moore (2007年10月1日). “Zemun: The Town Within the City”. B92 Travel. 2007年5月17日閲覧。
  124. ^ a b c d Zoran Manević. “Architecture and Building”. MIT website. 2007年5月19日閲覧。
  125. ^ Prof. Dr. Mihajlo Mitrović (2003年6月27日). “Seventh Belgrade triennial of world architecture”. ULUS. 2007年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  126. ^ Sportski tereni” (Serbian). Public utility "Ada Ciganlija". 2007年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  127. ^ Ada Ciganlija”. Tourism Organisation of Belgrade. 2006年9月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  128. ^ O Adi” (Serbian). Public utility "Ada Ciganlija". 2007年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  129. ^ Kupalište” (Serbian). Public utility "Ada Ciganlija". 2007年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  130. ^ Ana Nikolov (2005-07-29). Beograd – grad na rekama. Institut za Arhitekturu i Urbanizam Srbije. http://www.ekapija.com/website/sr/page/17516 2007年6月5日閲覧。. 
  131. ^ Zbogom, oazo!” (Serbian). Kurir (2006年5月23日). 2007年6月5日閲覧。
  132. ^ Beoinfo (2005年8月4日). “Prirodno dobro "Veliko ratno ostrvo” stavljeno pod zaštitu Skupštine grada” (Serbian). Ekoforum. 2007年6月5日閲覧。
  133. ^ Eve-Ann Prentice (2003年8月10日). “"Why I love battered Belgrade"”. The Guardian Travel. 2007年5月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  134. ^ Seth Sherwood (2005年10月16日). “Belgrade Rocks”. The New York Times. 2007年5月19日閲覧。
  135. ^ Barbara Gruber (2006年8月22日). “Belgrade's Nightlife Floats on the Danube”. Deutsche Welle. 2007年5月19日閲覧。
  136. ^ Slovenci dolaze u jeftin provod” (Serbian). [[:en:Glas Javnosti|]] (2004年12月21日). 2007年7月10日閲覧。
  137. ^ U Beograd na vikend-zabavu” (Croatian). Večernji list (2006年1月6日). 2006年1月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年6月15日閲覧。
  138. ^ Gordy, Eric D. (1999). “The Destruction of Musical Alternatives”. The Culture of Power in Serbia: Nationalism and the Destruction of Alternatives. Penn State Press. pp. 121–122. ISBN 0271019581. https://books.google.co.jp/books?id=WqoZsrmYZQIC&dq=Belgrade+KST&redir_esc=y&hl=ja 2007年7月10日閲覧。 
  139. ^ Klub Studenata Tehnike - O nama” (Serbian). 2010年11月21日閲覧。
  140. ^ Student cultural center”. SKC. 2009年1月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  141. ^ Skadarlija”. Tourist Organisation of Belgrade. 2007年1月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  142. ^ History”. BiP (Belgrade Brewery). 2007年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  143. ^ Znamenite građevine 3” (Serbian). Official site. 2007年7月10日閲覧。
  144. ^ Europe's best nightlife” (English). Official site. 2008年4月11日閲覧。
  145. ^ Sport and Recreation”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  146. ^ Universiade 2009 (Belgrade)”. FISU. 2007年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  147. ^ History of the Olympic Committee of Serbia”. Olympic Committee of Serbia. 2009年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  148. ^ /past/index_uk.asp?OLGT=1&OLGY=1996 Atlanta 1996”. Official Website of the Olympic Movement. 2007年5月19日閲覧。
  149. ^ Sport and Recreation (Stadiums)”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  150. ^ Sport and Recreation (Sport Centers and Halls)”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  151. ^ Venues”. EYOF Belgrade 2007. 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月30日閲覧。
  152. ^ RTS”. Radio Television of Serbia (2005年8月23日). 2010年11月21日閲覧。
  153. ^ ПГП - РТС (Прича о нама)”. PGP RTS. 2010年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月21日閲覧。
  154. ^ Jared Manasek (2005年1月). “The Paradox of Pink”. Columbia Journalism Review. 2007年3月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  155. ^ B92 na 8.598. mestu na svetu” (Serbian). B92 (2006年9月1日). 2007年5月19日閲覧。
  156. ^ The University of Belgrade – The Seedbed of University Education”. Faculty of Law of University of Belgrade. 2009年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月18日閲覧。
  157. ^ History of The University”. University of Belgrade. 2008年3月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月18日閲覧。
  158. ^ Универзитет у Београду - Број Студената” (HTML) (Serbian). University of Belgrade. 2008年10月16日閲覧。
  159. ^ Education and Science”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  160. ^ Statistics”. Public Transport Company "Belgrade". 2007年5月19日閲覧。
  161. ^ 「ベオグラードを走る日本製バスが伝えること」東洋経済
  162. ^ History of the Port of Belgrade”. Port of Belgrade. 2007年5月18日閲覧。
  163. ^ Aerodromi i letelišta” (Serbian). Vazduhoplovni vodič kroz Beograd. 2006年5月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年5月3日閲覧。
  164. ^ Regionalni centar putničkog i kargo saobraćaja” (Serbian). Danas (2005年5月20日). 2007年7月10日閲覧。
  165. ^ "Nikola Tesla" Airport received its two millionth passenger”. Belgrade Nikola Tesla Airport (2006年11月14日). 2006年5月18日閲覧。
  166. ^ www.beg.aero | Nikola Tesla Belgrade Airport | News
  167. ^ Belgrade Bypass, Serbia”. CEE Bankwatch network. 2007年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月19日閲覧。
  168. ^ 1. faza prve deonice Unutrašnjeg magistralnog poluprstena” (PDF) (Serbian). Belgrade Direction for Building and Real Estate Land/EBRD (2005年7月1日). 2007年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年9月15日閲覧。
  169. ^ International Cooperation”. Official website. 2007年7月10日閲覧。
  170. ^ Beograd: Međunarodni odnosi”. Stalna konferencija gradova i opština Srbije. 2007年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年6月18日閲覧。
  171. ^ Council okays peace committees: Lahore and Chicago to be declared twin cities.”. The Post (2007年1月28日). 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月16日閲覧。
  172. ^ Received Decorations”. Official website. 2007年5月16日閲覧。
  173. ^ European Cities of the Future 2006/07”. fDi magazine (2006年2月6日). 2007年7月10日閲覧。
  174. ^ Aleksandar Miloradović (2006年9月1日). “Belgrade - City of the Future in Southern Europe” (PDF). TheRegion, magazine of SEE Europe. 2007年7月10日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

座標: 北緯44度48分58秒 東経20度28分54秒 / 北緯44.8162度 東経20.4816度 / 44.8162; 20.4816