シャー・ジャハーン3世
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シャー・ジャハーン3世 شاہجہان ثالث | |
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ムガル帝国対立皇帝 | |
在位 | 1759年12月10日 - 1760年10月10日 |
戴冠式 | 1759年12月10日 |
別号 | パードシャー |
全名 | ムハンマド・ムヒー・ウッミッラト |
出生 |
1711年 不詳 |
死去 |
1772年 アラーハーバード |
子女 |
ミールザー・サアーダト・バフト ミールザー・イクラーム |
王朝 | ムガル朝(ティムール朝) |
父親 | ムヒー・ウッスナート |
母親 | 不詳 |
宗教 | イスラーム教(スンナ派) |
シャー・ジャハーン3世(ヒンディー語:शाहजहां तृतीय, ウルドゥー語: شاہجہان ثالث, Shah Jahan III, 1711年 - 1772年)は、北インド、ムガル帝国の対立皇帝(在位:1759年 - 1760年)。
生涯
[編集]1759年11月29日、ムガル帝国の宰相ガーズィー・ウッディーン・ハーンは皇帝アーラムギール2世をデリーで殺害し、新たにアウラングゼーブの皇子カーム・バフシュの孫シャー・ジャハーン3世を擁立した[1]。
その後、12月10日にシャー・ジャハーン3世が即位して間もなく、デリーから離れた所にいたアーラムギール2世の皇子シャー・アーラム2世が即位した[1]。ここに2人の皇帝が併立することになったが、正式な皇帝はシャー・アーラム2世であり、シャー・ジャハーン3世は対立皇帝にすぎないとされている。
さて、シャー・ジャハーン3世が擁立されたとき、アフガニスタンの君主アフマド・シャー・ドゥッラーニーが北インドに向けて侵攻していた。1760年1月にアフガン軍によってデリーが占領され、8月2日には対抗するマラーターの軍勢がデリーへ入城した[2]。
そうしたなか、同年10月10日、宰相ガーズィー・ウッディーン・ハーンと好があったマラーター軍が裏切り、シャー・ジャハーン3世を廃位し、宰相も同時に失脚した[1][2]。これは、マラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオがシュジャー・ウッダウラにアフガン軍との調停を委ねる代わり、帝国の宰相になれるよう助力を秘密裏に約束していたからだった[2]。
1772年、シャー・ジャハーン3世はアラーハーバードで死亡した。