北魏
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北魏(ほくぎ、拼音: 、386年 - 535年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し華北を統一して、五胡十六国時代を終焉させた。
国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東西分裂後の東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。
歴史
[編集]北魏の建国
[編集]鮮卑の拓跋部では、三国時代の261年、拓跋力微が曹魏に対して朝貢を行っているが、このことが後に、国号を魏に定める由来となった。拓跋部はその後五胡十六国時代に代を建てた。代は8主60余年続いたが、376年12月に拓跋什翼犍の時に前秦の苻堅に滅ぼされた[1]。この際、拓跋什翼犍の孫(『宋書』では子)の拓跋珪は母と共に[1]、母の出身部の賀蘭部に逃れ、さらに前秦支配下で代国東部を統治していた独孤部の劉庫仁の下に身を寄せた[2]。その前秦が383年10月の淝水の戦いで東晋に大敗を喫して弱体化する。384年10月に劉庫仁が死去すると後継者争いが起こり、拓跋珪はまた賀蘭部に逃れたが、前秦崩壊による諸民族自立の波は北方にも波及した。そして386年1月に賀蘭部の推戴を受けて牛川(現在の内モンゴル自治区ウランチャブ市チャハル右翼後旗)で代王に即位して登国と建元し、4月には魏王と改称した[2]。これが北魏の建国である[2]。
しかし建国当初の北魏の支配圏は盛楽(現在の内モンゴル自治区フフホト市ホリンゴル県)を中心とした限定的な地域だけで、かつての代よりその勢力は弱小な小国に過ぎなかった[2]。北魏は当初、後燕と同盟を結び連携して387年7月に劉庫仁の後継者劉顕を破り、391年12月には代の旧領西部を統治していた劉衛辰を滅ぼし、さらに前後して柔然や高車などにも攻勢に出てオルドスからモンゴルに至る地域の大半を支配下に置いた[2]。しかしこのような急速な勢力拡大は後燕と衝突する事になり、北魏が後燕と対立していた西燕と同盟を結んで敵対した[3]。西燕が394年8月に後燕により滅ぼされると[4]、395年5月に後燕皇帝慕容垂は皇太子慕容宝に10万の軍を預けて北魏を攻撃させた。対する北魏はオルドスまで後退して対峙し、11月に現在の山西省陽高県の参合陂の戦いで後燕軍を壊滅させて、後燕との力関係を逆転させた[3]。
396年3月に慕容垂の反攻を受けて平城を失い敗退するが、4月に慕容垂が急病により陣没し、慕容宝が跡を継ぐと後燕は皇族の内紛などで急速に弱体化した[3]。北魏はこれを受け6月に広寧(現在の河北省涿鹿県)・上谷(現在の河北省懐来県)を奪取し、9月には并州(現在の山西省)を平定した[2]。東方においては後燕の本拠地ともいえる冀州に侵攻して常山(現在の河北省石家荘市)を奪い、後燕の首都中山(現在の河北省定州市)や信都(現在の河北省衡水市冀州区)・鄴(現在の河南省臨漳県)を除く地域も制圧した[2]。信都は397年1月に陥落させ[2]、中山は後燕の内紛で慕容宝の弟慕容麟が自立していた[5]のを奪った。[6]鄴も398年1月に平定して、2月には後燕より中山を攻撃されるが撃退した[5]。こうして後燕から黄河以北の地をほぼ奪い、中原の支配者となった。
皇帝に即位
[編集]こうした勢力拡大を背景にして、拓跋珪は7月に平城(現在の山西省大同市平城区)に遷都し、12月に皇帝として即位し道武帝となった[6]。道武帝は慕容垂時代の後燕における漢人知識人の名臣を用いて、国家体制や支配制度の整備に尽力した。またこれまで五胡王朝が中原を支配するとそちらに遷都ししていたが、道武帝は牧畜地帯に基盤を置いて中原の農耕地帯を支配する体制を取るために平城にこだわった。こうして北魏の基礎は確立された[6]。
その後、北魏は後燕や分裂して成立した南燕に圧力をかけ、後燕滅亡後に成立した北燕に対しても圧力をかけた。また当時、北魏と同様に勢力を拡大していた後秦とも衝突し、402年5月に後秦軍により平陽が攻撃されたので[7]、北魏は道武帝が親征して柴壁の戦いで後秦軍を撃破した[8]。しかし当時の北魏には後秦を滅ぼすまでの力は無く、407年に和睦した[8]。道武帝はこうして勢力を大幅に拡大したが、409年10月に次男の拓跋紹に殺害された[9]。
その後長男の拓跋嗣は拓跋紹を殺害して即位し、明元帝となった[9]。その後明元帝は高車や柔然に攻撃をかけ、さらに北燕・南燕・後秦・夏と対立した[9]。その頃東晋では劉裕が政権を掌握し、410年に南燕を、417年に後秦を滅ぼして北魏と対立し、420年には恭帝に禅譲させて皇帝となり宋を立てた[9]。明元帝自身はあまり積極的な勢力拡大を行なわなかったが、使節が2度にわたって捕縛された北燕とは416年から交戦し[10]、また夏とも西秦と連携して戦っている。423年11月に明元帝は死去し[9]、その後長男の拓跋燾が即位して太武帝となった[9]。
華北の統一
[編集]この頃になると華北で北魏と軍事的に対抗できたのは夏だけだったため[9]、太武帝は高句麗や宋と頻繁な外交を展開した[11]。夏は425年8月に始祖の赫連勃勃が死去すると急速に衰退し、426年10月に太武帝は親征して夏の首都統万城を陥落させた[12]。赫連勃勃の跡を継いだ子の赫連昌は428年2月に上邽に逃れるが北魏に捕らえられ、弟の赫連定が平涼で即位したが、430年11月に北魏に追われてやはり上邽に逃れた[12]。そして431年6月、赫連定は吐谷渾に捕縛され、北魏の首都平城に連行されて処刑されて滅亡した[12]。
夏の滅亡により、残るは後仇池・北燕・北涼だけとなる[11]。しかしこれらは南朝の宋と連携してようやく北魏と対抗できるにすぎない小国であり、436年4月に内紛で弱体化していた北燕を滅ぼした[11]。北涼は早くから北魏に従属し、婚姻関係を結ぶことなどを通じて密接な関係を維持していたが[13]、439年9月に太武帝自らの親征で北涼を滅ぼした[11]。
これが北魏による華北の統一といわれているが、実際にはまだ後仇池が残存していた[11]。その後仇池も442年に北魏により滅ぼされ、ここに北魏は前趙の成立から約150年にわたって続いた華北の分裂を収拾して統一政権を樹立した[11]。これ以後の中国大陸は南北朝時代と呼ばれる。
漢化政策の推進
[編集]北魏はそれまでの部族制を解体し、貴族制にもとづく中国的王朝に改編していった。北魏の華北統一により移民は440年代を境に減少し(440年代は2万人とかなり減少していた)、北方異民族からの移民も450年代を境にしてほとんど見られなくなり、華北社会は安定した[14]。
このころ道士寇謙之が道教教団を確立し、漢人官僚の崔浩と結んで太武帝に進言し、廃仏が断行された。これが三武一宗の法難の最初のものである。崔浩は南朝をモデルにした貴族社会の創設を性急に推進し、さらに鮮卑と漢族の融合を目指して漢化政策を推し進めたが、国史編纂において鮮卑族を怒らせた結果、450年に誅殺された(国史の獄)[15]。
その後混乱が続くが、孝文帝を擁立した馮太后がそれを収めた。そして馮太后は儒教的礼制を採用し、均田制を施行し、三長制を確立した。馮太后の死後、親政を開始した孝文帝はさらに急激な漢化政策を進めた。孝文帝の漢化政策は鮮卑の服装や言語の使用禁止、漢族風一字姓の採用など、いずれも鮮卑と漢人の融合政策だったが、鮮卑人の国粋的反発と反動を呼び起こし、のちの六鎮の乱の要因ともなった[15]。493年、都を平城から洛陽に遷した[15]。
六鎮の乱と北魏の分裂
[編集]その後の北魏は、六鎮の乱を経て軍人の力が強くなる。さらに爾朱栄が胡太后や幼主元釗を殺害した河陰の変(爾朱栄の乱)が起こった。建国から約150年後の永熙年間に、高歓と宇文泰により別々の皇帝が擁立されて東魏と西魏に分裂し、高氏の北斉と宇文氏の北周がそれぞれに取って代わることで滅んだ。
美術
[編集]3代太武帝による廃仏ののち、歴代の皇帝は仏教を篤く信奉し、5世紀末から6世紀初めには雲崗や龍門といった巨大な石窟寺院が開かれ唐代と並ぶ中国仏教の最盛期を迎えた。第4代文成帝が僧官曇曜(どんよう)の建言によって平城近郊の岩場に建立した、いわゆる「曇曜五窟」(雲崗石窟の第16-第20窟)では、肉体や衣服の表現にガンダーラ美術・グプタといったインド仏教美術の影響が色濃く残っている。
石窟寺院では洞窟の内部に仏像や仏塔を彫り、周囲を壁画やレリーフで装飾する伽藍形式が広く隆盛し、仏教文化は中国に広く浸潤していくこととなった。
第6代孝文帝は洛陽に遷都すると急速な漢化政策を推し進め、洛陽郊外に龍門石窟を造営した。龍門石窟には北魏代のものと唐代のものが存在するが、北魏代の伽藍である賓陽中洞では、漢風の伝統が重んじられ、細く切れ長の目やなで肩、首のたるみなどといった象徴主義的な表現が見られるようになる。写実性を排した中国風の仏像はここに完成を見、広く東アジア諸国に伝播していった。日本ではこの様式を特に「北魏様式」という。
日本との関わり
[編集]北魏と日本文化との間には数多くの関連があることが指摘されている。
- 福岡県(筑紫国)の霊泉寺(英彦山)は、531年(継体天皇25年)に北魏の善正上人が創始したものである。
- 伊東忠太によれば、法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。法隆寺は元は百済様式であったが、壬申の乱の時期に火災を被り、再建後には北魏様式となった。
- 杉山正明によれば、日本の源氏という皇別氏族の興りは、北魏の太武帝が同族の源賀に源姓を名乗らせたことに影響された可能性がある。
- 北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる。平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない[16]。
行政区画
[編集]北魏には113の州があり、州の下に郡があり、郡の下に県がある。
- 河北地域
- 司州、定州、冀州、并州、瀛州、殷州、滄州、肆州、幽州、晋州、懐州、建州、汾州、東雍州、安州、介州、南汾州、南営州、燕州、営州、平州、恒州、朔州
- 中原地域
- 雲州、蔚州、顕州、廓州、武州、西夏州、寧州、霊州、兗州、青州、斉州、鄄州、済州、光州、梁州、豫州、北豫州、徐州、西兗州、南兗州、広州、膠州、洛州、南青州、北徐州、北揚州、東楚州、東徐州、海州、東豫州、義州、潁州、譙州、北荊州、陽州、南司州、楚州、合州、霍州、睢州、南定州、西楚州、蔡州、西淮州、揚州、淮州、仁州、光州、泰州、蒙州、南建州、沙州、北江州、湘州、汴州、財州
- 西部地域
- 雍州、北雍州、岐州、秦州、南秦州、南岐州、東益州、益州、巴州、梁州、南梁州、東梁州、涇州、河州、渭州、原州、涼州、鄯州、瓜州、西涼州、華州、北華州、豳州、夏州、東夏州、陝州、洛州、荊州、襄州、南襄州、南広州、郢州、南郢州、析州
歴代皇帝
[編集]北魏宗室の本来の姓は「拓跋」だったが、孝文帝の漢化政策によって漢風の姓「元」に改めた。
- 太祖道武帝(拓跋珪、在位:386年〈代王〉、386 - 398年〈魏王〉、398年 - 409年〈皇帝〉)[17]。
- 太宗明元帝(拓跋嗣、在位:409年 - 423年)
- 世祖太武帝(拓跋燾、在位:423年 - 452年)
- 南安隠王(拓跋余、在位:452年)
- 高宗文成帝(拓跋濬、在位:452年 - 465年)
- 顕祖献文帝(拓跋弘、在位:465年 - 471年)
- 高祖孝文帝(元宏、在位:471年 - 499年)
- 世宗宣武帝(元恪、在位:499年 - 515年)
- 粛宗孝明帝(元詡、在位:515年 - 528年)
- 敬宗孝荘帝(元子攸、在位:528年 - 530年)
- 東海王(元曄、在位:530年 - 531年)
- 節閔帝・前廃帝(元恭、在位:531年 - 532年)
- 汝南王(元悦、在位︰530 - 532年):僭称皇帝。南朝梁によって魏帝と称せられる。
- 安定王・後廃帝(元朗、在位:531年 - 532年):531年10月に高歓に擁立されて即位。ただしその時には爾朱度律らによって擁せられた節閔帝(前廃帝)がまだ在位し、さらには南朝梁に後援された元悦も皇帝を称していたので、高歓が北魏の実権を握って節閔帝と元悦の帝位を消滅させる翌年4月まで、北魏には3人の皇帝が並び立った。
- 孝武帝・出帝(元脩、在位:532年 - 534年):534年7月に洛陽を脱出して長安に入り(西魏)、10月に洛陽で高歓が孝静帝(元善見)を即位させた(東魏)ため、北魏はふたつに分裂した。
また、以下の人物は子や弟が皇帝に即位した際に追尊された。
系図
[編集]拓跋部 | (1)拓跋毛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(13)拓跋鄰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(14)拓跋詰汾 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
禿髪匹孤 | (15)拓跋力微 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(南涼) | (16)拓跋沙漠汗 | (17)拓跋悉鹿 | (18)拓跋綽 | (東部)拓跋禄官 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(中部)拓跋猗㐌 | (19)拓跋弗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
代 | (1)拓跋猗盧 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)拓跋普根 | (5)拓跋賀傉 | (6,8)拓跋紇那 | 拓跋六脩 | (4)拓跋鬱律 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3拓跋? | (7,9)拓跋翳槐 | (10)拓跋什翼犍 | 拓跋孤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
拓跋寔君 | (追)拓跋寔 | 拓跋窟咄 | 拓跋斤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北魏 | (1)道武帝 拓跋珪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)明元帝 拓跋嗣 | 清河王 拓跋紹 | 陽平王 拓跋煕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)太武帝 拓跋燾 | 淮南靖王 拓跋他 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)景穆帝 拓跋晃 | 東平王 拓跋翰 | (4)南安王 拓跋余 | 元鍾葵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(5)文成帝 拓跋濬 | 南安王 拓跋楨 | (僭)元法僧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)献文帝 拓跋弘 | 中山王 元英 | 章武王 元彬 | 扶風王 元怡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(7)孝文帝 元宏 | (追)先帝 元羽 | 北海王 元詳 | (追)文穆帝 元勰 | 章武王 元融 | (11)東海王 元曄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
廃太子 元恂 | (12)節閔帝 元恭 | (僭)北海王 元顥 | (追)孝宣帝 元劭 | (10)孝荘帝 元子攸 | (13)安定王 元朗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(8)宣武帝 元恪 | (追)武穆帝 元懐 | 清河王 元懌 | (僭/追)文景帝 元愉 | (僭)汝南王 元悦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(9)孝明帝 元詡 | 臨洮王 元宝暉 | (西1)文帝 元宝炬 | 清河王 元亶 | (14)孝武帝 元脩 | 馮翊公主 元氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(僭)孝明帝女児 元氏 | (僭)幼主 元釗 | (西2)廃帝 元欽 | (西3)恭帝 拓跋廓 | (東1)孝静帝 元善見 | (北周1)孝閔帝 宇文覚 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元号
[編集]- 登国(386年 - 396年)
- 皇始(396年 - 398年)
- 天興(398年 - 404年)
- 天賜(404年 - 409年)
- 永興(409年 - 413年)
- 神瑞(414年 - 416年)
- 泰常(416年 - 423年)
- 始光(424年 - 428年)
- 神䴥(428年 - 431年)
- 延和(432年 - 434年)
- 太延(435年 - 440年)
- 太平真君(440年 - 451年)
- 正平(451年 - 452年)
- 承平(452年)一説に永平
- 興安(452年 - 454年)
- 興光(454年 - 455年)
- 太安(455年 - 459年)
- 和平(460年 - 465年)
- 天安(466年 - 467年)
- 皇興(467年 - 471年)
- 延興(471年 - 476年)
- 承明(476年)
- 太和(477年 - 499年)
- 景明(500年 - 503年)
- 正始(504年 - 508年)
- 永平(508年 - 512年)
- 延昌(512年 - 515年)
- 熙平(516年 - 518年)
- 神亀(518年 - 520年)
- 正光(520年 - 525年)
- 孝昌(525年 - 527年)
- 武泰(528年)
- 建義(528年)
- 永安(528年 - 530年)
- 建明(530年 - 531年)
- 普泰(531年)
- 中興(531年 - 532年)
- 太昌(532年)
- 永興(532年)
- 永熙(532年 - 534年)
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 三崎 2012, p. 146.
- ^ a b c d e f g h 三崎 2012, p. 147.
- ^ a b c 三崎 2012, p. 105.
- ^ 三崎 2012, p. 104.
- ^ a b 三崎 2012, p. 106.
- ^ a b c 三崎 2012, p. 148.
- ^ 三崎 2012, p. 116.
- ^ a b 三崎 2012, p. 117.
- ^ a b c d e f g 三崎 2012, p. 149.
- ^ 三崎 2012, p. 110.
- ^ a b c d e f 三崎 2012, p. 150.
- ^ a b c 三崎 2012, p. 126.
- ^ 三崎 2012, p. 139.
- ^ 三崎 2012, p. 209.
- ^ a b c 三崎 2012, p. 211.
- ^ 福永光司『「馬」の文化と「船」の文化』(新装版)人文書院、2018年(原著1996年)。なお、拓跋力微の諡号が聖武帝、嵯峨は騎馬民族の聖地の名、天平・神亀は同一年号が北魏と日本にある。
- ^ 三崎 2012, p. 175.
参考文献
[編集]- 三崎良章『五胡十六国 中国史上の民族大移動』(新訂版)東方書店(東方選書43)、2012年10月。ISBN 978-449721222-1。
- 窪添慶文『北魏史 洛陽遷都の前と後』東方書店(東方選書54)、2020年12月。ISBN 978-449722024-0。
- 『魏書』
- 『北史』
先代 前秦 |
北魏 386年 - 534年 |
次代 東魏 西魏 |