保坂司
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名前 | ||||||
カタカナ | ホサカ ツカサ | |||||
ラテン文字 | HOSAKA Tsukasa | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1937年3月3日 | |||||
出身地 | 山梨県甲府市 | |||||
没年月日 | 2018年1月21日(80歳没) | |||||
身長 | 175cm[1] | |||||
体重 | 68kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
ユース | ||||||
1952-1954 | 甲府第一高校 | |||||
1955-1958 | 明治大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1959-1968 | 古河電気工業 | 47 | (0) | |||
甲府クラブ | ||||||
通算 | 47 | (0) | ||||
代表歴 | ||||||
1960-1964 | 日本 | 19 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1973-1977 | 甲府クラブ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
保坂 司(ほさか つかさ、1937年3月3日 - 2018年1月21日)は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、政治家。
来歴
[編集]積翠寺温泉(甲府市)の旅館「古湯坊 坐忘庵」の保坂家の22代目であり、サッカーは山梨県立甲府第一高校の3年次より始めた。当初はウィングであったが、その後にGKにポジションを変更し、同年の第9回国民体育大会では準優勝を経験した[2]。進学した明治大学でもサッカー部に所属、1年次よりスタメンに定着した[2]。
大学卒業後は古河電工サッカー部に入部。古河では実業団初となる天皇杯獲得に貢献した[3]。
1960年11月6日の韓国代表戦で日本代表として初出場[1]。1964年の東京五輪でもレギュラーと目されていたが、大会直前の遠征で手を骨折してしまい、横山謙三にポジションを譲る事になった。その後も1967年までプレイした。
引退後は日本蹴球協会技術指導委員、甲府サッカークラブ(現ヴァンフォーレ甲府)監督(1973年-1977年)を歴任。また山梨県議会議員・議長も務めた。
1998年の第18回参議院議員通常選挙の山梨県選挙区に自由民主党公認で立候補し169,633票を獲得したが、183,721票を獲得した民主党公認の輿石東に敗れた。その後は古湯坊 坐忘庵会長を務めていた[2]。
2018年1月21日、肺炎のため、山梨県立中央病院で死去[4][5]。80歳没。
所属クラブ
[編集]個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | - | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1965 | 古河 | JSL | 0 | - | |||||||
1966 | 0 | - | |||||||||
1967 | 0 | - | - | ||||||||
1968 | 0 | - | - | ||||||||
通算 | 日本 | JSL | 47 | 0 | - | ||||||
総通算 | 47 | 0 | - |
代表歴
[編集]出場大会
[編集]- 1962 FIFAワールドカップ・予選
- アジア競技大会(1962年)
- 第7回ムルデカ大会(1963年)
試合数
[編集]- 国際Aマッチ 19試合 0得点(1960-1964)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1960 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
1961 | 6 | 0 | 3 | 0 | 9 | 0 |
1962 | 6 | 0 | 5 | 0 | 11 | 0 |
1963 | 5 | 0 | 7 | 0 | 12 | 0 |
1964 | 1 | 0 | 6 | 0 | 7 | 0 |
1965 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
1966 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1967 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 19 | 0 | 27 | 0 | 46 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1960年11月06日 | ソウル | 韓国 | ●1-2 | デットマール・クラマー(コーチ) | ワールドカップ予選 | |
2. | 1961年05月28日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | マラヤ | ○3-2 | 高橋英辰 | 国際親善試合 |
3. | 1961年06月11日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | 韓国 | ●0-2 | ワールドカップ予選 | |
4. | 1961年08月02日 | クアラルンプール | マラヤ | ●2-3 | ムルデカ大会 | ||
5. | 1961年08月06日 | クアラルンプール | インド | ○3-1 | ムルデカ大会 | ||
6. | 1961年08月10日 | クアラルンプール | 南ベトナム | ●2-3 | ムルデカ大会 | ||
7. | 1961年11月28日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ユーゴスラビア | ●0-1 | 国際親善試合 | |
8. | 1962年08月25日 | インドネシア | タイ | ○3-1 | アジア大会 | ||
9. | 1962年08月29日 | インドネシア | インド | ●0-2 | アジア大会 | ||
10. | 1962年08月30日 | インドネシア | 韓国 | ●0-1 | アジア大会 | ||
11. | 1962年09月08日 | クアラルンプール | マラヤ | △2-2 | ムルデカ大会 | ||
12. | 1962年09月15日 | クアラルンプール | ビルマ | ●1-3 | ムルデカ大会 | ||
13. | 1962年09月21日 | シンガポール | シンガポール | ●1-2 | 国際親善試合 | ||
14. | 1963年08月08日 | クアラルンプール | マレーシア | ○4-3 | 長沼健 | ムルデカ大会 | |
15. | 1963年08月10日 | クアラルンプール | タイ | ○4-1 | ムルデカ大会 | ||
16. | 1963年08月12日 | クアラルンプール | 南ベトナム | ○5-1 | ムルデカ大会 | ||
17. | 1963年08月13日 | クアラルンプール | 韓国 | △1-1 | ムルデカ大会 | ||
18. | 1963年08月15日 | クアラルンプール | チャイニーズタイペイ | ●0-2 | ムルデカ大会 | ||
19. | 1964年03月03日 | シンガポール | シンガポール | ○2-1 | 国際親善試合 |
監督成績
[編集]年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | JSL杯 | 天皇杯 | |||
1973 | JSL2部 | 甲府ク | 準優勝 | 18 | 26 | 12 | 2 | 4 | - | 予選敗退 |
1974 | 5位 | 18 | 20 | 8 | 4 | 6 | - | |||
1975 | 7位 | 18 | 14 | 5 | 4 | 9 | - | |||
1976 | 8位 | 18 | 12 | 4 | 4 | 10 | 予選敗退 | |||
1977 | 5位 | 18 | 32 | 6 | 2PK勝 4PK敗 | 6 | 予選敗退 |
出典
[編集]- ^ a b c “FIFAワールドカップチリ予選”. 日本サッカー協会. 2016年2月25日閲覧。
- ^ a b c 「古湯坊・坐忘庵 甲府市 「隠し湯」継いだ東京五輪GK/山梨県」朝日新聞、2014年11月14日、2016年2月25日閲覧
- ^ “オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)”. 賀川サッカーライブラリー. 2013年9月6日閲覧。
- ^ “元サッカー日本代表の保坂司氏が死去 80歳 東京五輪メンバー”. スポーツニッポン (2018年1月23日). 2018年1月23日閲覧。
- ^ “五輪サッカー代表、県議会議長 保坂司氏が死去”. 山梨日日新聞 (2018年1月23日). 2018年1月23日閲覧。